それは事故だった。

 この悪魔学校で爆発やトラブルは日常茶飯事で、空から何かが降ってくることもそう珍しいことではなかった。
 だから、上から何かが潰れるような声が聞こえてきて、見上げると何か瓶のようなものがくるくると回りながら落ちてきたときも、私はそれほど慌てもしなかったのに。

「危ない!」

 短い声が飛んできて、気が付くと強く手を引かれていた。
 ぱっと顔を上げると、険しい表情をして前を見つめる後輩の顔があった。
 彼に引いてもらったものの一瞬だけ逃げ遅れた片方の手にぴしゃりと瓶から飛び出た液体がかかる。
 彼に助けられたのだとすぐに気が付いた。小さな瓶くらいどうということはないけれど、中身を頭から被ってはびしょ濡れになっていただろう。何故だか私を慕ってくれているこの後輩は、それを未然に防いでくれたのだ、と。

「助けてくれてありがとう。あの、アズくん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。先輩も怪我はありませんね?」

 そう言って彼が右手で私の肩に触れてパッパッと埃を払ってくれる。液体が手にかかった以外は彼のおかげで何ともない。それも水のように無色透明で、触れても肌がひりついたり、爛れたりなどの異常はない。彼はまるで心配で仕方のないかのように手を握ったままだった。
 さすがに子どものようで恥ずかしくて、手を引こうとしてもまるで逃がさないとでも言うかのように握られたままだ。

「あの、アズくん、手……」
「すみません、それが……」

 言いづらそうに彼が視線を落とす。

「離れないのです」

 そんな馬鹿な、と手を引いてみたけれど、彼が指先に力を入れている様子もないのに離れない。試しに右手をブンブンと振ってみたけれども、同じように彼の腕がついてくるだけだった。

「えっ、本当に取れない」

 思わず「なんで」という言葉が口を突いて出る。

「ひとまず保健室に行きましょう。原因が分かるかもしれません」

 原因など先ほどの液体しか考えられない。それを被ってしまった部分がくっついてしまったのだ。明らかに怪しい。
 上の階から瓶を落としたやつを捕まえに行きたかったけれどもそれを抑え、彼にゆるく手を引かれされるがままについていった。


「あらあら」

 医務室で私たちふたりを迎えてくれた先生は口に手を当て何だか楽しそうな表情でこちらを見た。ぱっと見は男女ふたりが手を繋いで仲良くやってきたように見えるのだろう。
 事情を説明すると先生は真剣な表情になって、くっついた手をじっと見ていた。

「特別高度な魔術でもないから無理矢理取ることも出来るけれども、その場合皮ごとべろんといく可能性があります」
「ヒッ……」
「このままでも日暮れには効果が切れるから心配しないで」

 一瞬怯んでしまったけれども、一日と経たず戻ることに安心した。一生このままだとか、高名な悪魔の元に呪いの解除を乞いにいかなければならないだとかいう事態になったらどうしようかと思っていたのだ。それに比べればただ時を待つだけというのは随分と容易いようにみえる。
 無理矢理剥がしてしまったとしても跡形もなく綺麗に治療は出来るけれどもその瞬間の痛みはなくせない。特別急ぐ理由もないだろうということで効果が切れるまでこのまま過ごすことになった。

「でも今日一日このまま……?」

 夕刻まではまだ数時間もある。学年の違う私たちは受ける授業も違う。もちろん、それ以外にも問題は山積みのように思えた。

「大丈夫です。このアスモデウス、決して先輩に不便な思いはさせません」

 私を安心させるためか、にっこりと綺麗な笑みを作って言う彼がやたら眩しく見えた。

  *

 その後すぐに教師たちに話がいって、授業などは特別に取り計らってもらえることになった。アズくんは問題児クラスで普通に授業、私はその隣で自習という形だ。
 問題児クラスの生徒にも話はいっていたはずだが、教室に入ると私たちの繋がれた手を見たアズくんのクラスメイトに一通り揶揄われた。

「こういうの何て言うんだっけ? 棚ぼた?」
「良かったな」
「うるさいっ! 先輩に近付くな! 散れ!」

 そう言ってアズくんが片手で追い払うと彼のクラスメイトたちは各々の席に戻っていった。
 アズくんには悪いけれど、揶揄われたことでクラスに少し馴染めたのは良かった。正式な許可を得ているとはいえ、他のクラスに混じるのは緊張する。

 席に着くとイルマくんとクララちゃんがやってきて、アズくんの向こうに並んで座る。私アズくんイルマくんクララちゃんの順で、四人も腰掛けている机は狭いはずなのに、三人とも文句を言わないどころかなぜだかにこにこと嬉しそうにしている。

「粛に。授業を始める」

 教室に入ってきたカルエゴ先生の一言で散らばっていた生徒たちが席に着き、静かになる。

 先生がこちらに背を向けてチョークで板書している隙に、シャーッと長机の上を四角く折られた紙が滑ってきた。やってきた方を見るとクララちゃんが身を乗り出してこちらを見ていて、視線が合うとにかりと笑顔を見せる。どうやらこれは私へ宛てた手紙らしい。紙を開くとクララちゃんらしい楽しげな文字があった。

『アズアズといっしょの授業うれしい?』

 このことをわざわざ聞くために手紙を書いてくれたのかと思うと、ついくすりと笑いが溢れた。

『皆と一緒の授業なんて新鮮でわくわくする』

 そう書いた紙をクララちゃんの元へ滑らせると、返事を読んだ彼女はニカッと大きな笑顔を見せる。
 クララちゃんと授業中にお手紙交換するという普段だったらありえない状況にわくわくと心が跳ねるのが分かった。

 ふと隣に視線を向ければ、アズくんは利き手ではない方の手で器用にノートを取っていた。きちんと先生の話を聞いて優等生らしく授業を受けている。窓から入ってくる光が彼の横顔を照らし、彼が視線を伏せると長い睫毛が彼の頬に影を落としている。
 もし、アズくんとクラスメイトだったなら、こんなふうにいつも彼の姿を見ることが出来たのだろうか。
 自習なのを良いことに、ぼんやりとアズくんの顔を眺めていると、ふと彼もこちらを向いて視線が絡む。

「先輩、見すぎです」

 内緒話をするように小さな声で彼が言う。こちらへ視線を向けて小さく微笑むアズくんを見ると、なぜだかこちらが悪いことをしてしまったような気分になった。先輩なのに後輩に自習をサボっているところを見られたからだろうか。

「あの、これは違うの! アズくんは利き手がふさがれて不便だよねと思って」

 私の方は右手だが、彼の方は利き手である左手がくっついてしまっている。

「板書に問題はありません。しかし、些かこの状況は……」
「粛に!」

 お喋りがバレてカルエゴ先生の怒声が飛んでくる。ふたりして思わず首を竦める。私たちが口を噤んだのを確認するとカルエゴ先生はすぐに黒板に向き直ってくれた。

「怒られてしまいましたね」

 先ほどよりももっと小声でアズくんが言う。注意されたというのに彼は楽しそうにいたずらっぽく微笑んでいる。
 隣に座っていつもより距離が近いせいか、彼に当てられてしまっているような気がする。
 もう彼の方を見るのはやめようと、私は自分の問題集にかじりついたのだった。

  *

 手を繋いで歩くのも不可抗力なのだけれど。

「ねえ、あれ!」
「えっ、どういうこと!?」

 ただ隣を歩いているだけならまだしも、手を繋いで仲睦まじく見える姿は人目を引く。しかもそれがこの悪魔学校で何かと目立つアスモデウス・アリスそのひとと、見慣れぬ女子生徒なのだ。すれ違う生徒たちがひそひそと言葉を交わしているのが分かる。
 けれども彼は見られることに慣れていると言わんばかりに堂々と廊下の真ん中を突っ切っていくのだ。

「先輩、購買入った新作の菓子は噂もう食べましたか?」
「いえ、まだだけど……」
「では、今から行きましょう! これが非常においしいとの噂で」

 意に介さないどころか、それを煽るかのように親しげに私の顔を覗き込みながら話しかけ、時折繋いだ手を見せつけるかのように持ち上げる。その度に周りから悲痛な叫びが上がる。

「アズくん」
「なにか?」

 私が名前を呼ぶと彼はとても綺麗な笑顔で応える。
 悪気はない。きっと彼には悪気はないのだろうけれど、わざとやっているように見えるのは穿ちすぎだろうか。わざと周りに誤解させて楽しんでいるような。悪魔らしいと言えば悪魔らしいが、巻き込まれるこちらの身にもなってほしい。

 もう知らないと先に歩き出すと、左手がピンと伸びてバランスを崩した。手がくっついているから一緒に歩かなければならないのにすっかり忘れていた。ぐらりとつま先が浮いて、後ろへ重心が持っていかれる。

「大丈夫ですか?」

 耳元で甘い声が聞こえる。
 バランスを崩した体は彼の胸に抱き止められていた。手がくっついていることをすっかり忘れて動いてしまったのが原因だったのだけれど、それを知らない人からはアズくんが手を引いて私を抱きしめたように見えただろう。その証拠に周りからは一層大きな悲鳴が聞こえた気がした。

「……今のは盛大に誤解された気がする」
「そうでしょうか?」

 それでもこの後輩は涼しい顔で笑っている。
 彼の胸を押すと意外にもすんなりと離された。

「さすがに誤解を解いた方が良かったんじゃ」
「いちいち説明して回るわけにはいかないでしょう」
「それは、そうだけど……もう、せめて遠回りでも人気のない廊下を通るとか!」

 わざわざ人の多い広間の前を通ることはないと思うのだ。

「……先輩は、嫌でしたか?」

 きゅっとくっついた手が握られるのが分かった。
 いつも堂々と自信たっぷりに振る舞っていればいい。完璧な、悪魔学校の優秀な生徒だったら良かったのに。それなのに時折見せる不安気な瞳のせいで、目が離せなくなる。

「……嫌じゃないよ」

 どちらかと言えば、アズくんに手を握られる、それが嫌でないことが問題なのだ。

 窓から差し込むオレンジ色の夕日に照らされて、ふたり分の影が細く長く伸びる。日が沈みきる時刻はもうすぐそこまで来ていた。――今になって彼の手のぬくもりが惜しい、だなんて。

「ああ、良かった」

 そう言って彼はほっとしたように表情をゆるめる。

 誰もが一目置く優秀な悪魔が私を慕っているというのは、なんて気持ちがいいのだろう――
 歩き出すとまたすれ違った生徒たちが皆一様に目を丸くさせて振り返る。私たちに注がれる視線に混じる羨望に、優越を感じる。だから、これはきっと、独占欲だ。

 もう少しだけ夜がやってくるのが遅ければ良いのに、と思った。

2021.04.25