それは、ある晴れた日の午後だった。

 あの日、私は母と一緒に貴族会に招かれていた。まだ小さかった私は母の言いつけを守らず、初めて見る貴族会の会場に興味を惹かれるままふらふらと彷徨っていた。気が付いたときには周りに人影のない知らない場所に来てしまっていた。薔薇の華やかな香りのする庭だった。

「おかあさま、どこ?」

 母を呼んでも当然返事はない。あるのは赤や白の大輪の薔薇ばかりで、母どころか屋敷の使用人の姿すら見えなかった。

「誰?」

 だから、鈴のなるような可憐な声が返ってきたことに私は目を丸くさせて驚いた。
 振り返ると淡い桃色の髪に、それによく似合う白のドレスを着た少女が立っていた。

「待て」

 知らない子がいたことにびっくりして、何か悪いことをしてしまったような気分になって、慌てて逃げ出そうとしたのに、その前に素早く手首を掴まれてしまった。

「もしかして、迷子……?」

 そう言われて私は迷子――ひとりぼっちになってしまったことに気が付いた。母もいない、慣れない知らない場所でひとりきり。
 自覚すると一気に心細くなって、じわりと視界が滲んだ。思わずしゃがみ込んで、手で顔を覆う。
 ぐすりと鼻を鳴らすと、女の子も私の隣にしゃがみ込む気配がした。

「ほら、泣かないで」

 そう言って彼女が真っ白なハンカチを差し出してくれる。
 私が受け取れずにいると、彼女はそっと私の目元にそれを当て、涙を拭ってくれた。
 至近距離で見る彼女の長い睫毛は頬に影を落としていて、「きれい……」と思わず言葉が溢れた。その声に視線を上げた彼女と目が合う。

「ああ、やっと笑った」

 そう言ってふわりと微笑んだ彼女の方がよっぽど目を惹きつけた。
 彼女の前でぐちゃぐちゃの泣き顔でいることが恥ずかしく思えて、手渡されたハンカチで頬を伝った涙を拭く。

「あの……」

 そのとき私が彼女に何を言おうとしたのかは覚えていない。開いた口から言葉が出る前に聞き慣れた女性の声が風に乗って聞こえてきた。

「――、どこにいるのー?」
「お母様が呼んでいるわ!」

 遠くから聞こえる声に勢いよく立ち上がると、隣の彼女もそれに続いた。
 母の元へ今すぐ駆け出したかったけれど、私はふと彼女を振り返る。

「あの、このハンカチ……」
「気にしなくていい」
「でも、そういうわけにはいかないから……。また、遊んでくれる?」

 ハンカチは綺麗にしてそのときに返そうと思った。
 不安気な声で聞けば、彼女は眉を下げて小さく微笑む。

「もちろん」

 その返事に私はとても喜んだ。きっと、この子と遊ぶのは楽しいに違いない。

「ぜったいよ!」

 そう約束して私は母のところへ向かった。
 このときはまたきっとすぐに会えると思っていた。名前も聞いていなければ、彼女がどこの誰か知らないことにも気付いていなかった。でも、一目見れば絶対に彼女と気付く自信はあったし、絶対にまた同じように貴族会で会えると信じていた。

「待ってる」

 そう言った彼女の言葉を、私はいまだ覚えている。

  *

 ――ピピピピ。
 目覚ましの音で目が覚める。布団から顔を出し、手を伸ばしてアラームを止めると、カーテンの隙間からから漏れる朝日が目に染みた。

「夢か……」

 懐かしい夢を見た。
 私の、大切な思い出。

2021.04.11