何かが唇に触れたような気がした。


 ぼんやりした視界が徐々に像を結んで、彼のひどく整った顔が映る。それでもまだ近すぎて、彼の燃えるような瞳の色しかはっきりと分からなかった。

「――なんだその顔は」

 そう言って彼は眉を寄せた。きっと私はぽかんと呆けた間抜けな顔をしているのだろう。

「ア……」

 彼の名前を呼ぼうとして、最後まで音にならなかった。
 思わず自分の唇に手を当てる。ふにと触れたそこはなぜか濡れた感覚がした。

「いま、なに……」
「キスしただけだろう」
「ギャーー!!」

 私の悲鳴が中庭に響く。それを彼は面倒くさそうに耳を塞いだ。

「付き合っているのだから別にいいだろう」

 「何か問題でもあるのか」と彼が嘯く。
 問題大有りだ!

「もっと、ムード、とか……」

 確かに私たちは付き合っているけれども手を繋ぐのが精一杯で、それより先はまだで。だから私はロマンチックなファーストキスにも憧れていたのに……じゃあ具体的にどんなのだったら良かったのかと尋ねられても答えられないけど。
 どうやら周りに人影はないようだったが、こんな誰が通ると分からない中庭で。しかも学校で。
 怒りやら恥ずかしさやらでぷるぷると震える私に対して、彼は「仕方ないだろう」と悪びれもせずに言う。

「今したかった」

 ぼんと顔から火が出そうなほど熱くなる。もう何も言うことが出来なかった。バカ、とただ胸をぽかぽか叩く。間違いなく私より彼の方が頭は良いはずなのに、どうして時々こう短絡的になるのだ。

「ほら、顔を上げろ」

 そう言われて素直に顔を上げてしまった私は人のことを言えないくらいひどく単純な生き物に違いない。
 気が付くと手首が捕らえられていて、するりと指を絡められる。

「なにを……」
「言わなければ分からないか?」

 心臓はもうこれ以上ないくらいドキドキと暴れ回っている。このままではどうにかなってしまいそうだと思うのに、それでも彼は手を握る力を緩めてはくれない。きゅっと繋ぎ止めるように触れるその手を振り払うことも出来なかった。

 彼の顔が近付いてくる。今度はぎゅっと強く目を瞑ると、彼が小さく笑う音が聞こえた。
 

2020.10.24