寒さも一層厳しくなってきたころ、悪魔学校は浮き足立っていた。

 『バレンタイン』と呼ばれるイベントがどこからともなく広まったのは最近のことだ。噂によると、女子から男子へチョコレートを渡すという行事らしい。――さらには、恋のイベントであるらしいという話まで流れていて一部の生徒は必死になっているらしい。

 誰が言い出したのか知らないが、その噂は爆発的な広がりを見せていて、生徒会は浮かれて過ぎた行動を起こす生徒を取り締まるので大忙しなのだとか。
 何やら怪しげなものをチョコレートに混ぜて大爆発を起こす者、愛の妙薬と称した水を騙し売って儲けようとする者、当日前からチョコレートを寄越せと暴れる者、などなど。処理しても処理しても小さな事件がひっきりなしに起こって大変らしいが、生徒会がバレンタインを禁止するつもりはないらしい。

『ここまで広まってしまったものを禁止にしては、反発も大きくなるだろうしな』

 というのが生徒会長の言らしい。
 バレンタインというイベントは聞けば聞くほど悪魔が好みそうな内容で、男女関係なく学校中の誰も彼もがその日に向けて夢中になるのも頷ける。

「このリボンを巻いてチョコを渡せば絶対成功するんだって!」

 すれ違った女生徒が興奮した様子で友人に話しかける声が通り過ぎていく。

 短く吐いた白い息が風に揺れて吹き消えるのを眺めながら、中庭に面する回廊を歩いているときだった。何やら騒がしい声が聞こえてきてそちらを見ると、この一年ですっかり顔見知りになった後輩三人組が中庭でお喋りをしていた。

「ねーねーイルマち、イルマちはチョコどんなのほしい?」
「何度も同じ質問を繰り返すな! イルマ様が困っておられるだろう!」

 アズくんとクララちゃんが何かを言い合って、それをイルマくんが宥める見慣れた光景だ。言い合いをすると言っても、戯れのようなもので仲が良いのは傍目から見ていてもよく分かる。

「何で? おいしいチョコ食べたいじゃん!」

 どうやら話の内容はバレンタインに関するもののようだった。当日まであと一週間に迫った今、誰も彼もがその話題を口にしているので、特別珍しいことではなかった。

「分かった、アズアズ、バレンタインにチョコもらえる自信ないから焦ってるんでしょー」
「山ほどもらえるわ!」

 彼は勢いよく返していたが、アズくんがバレンタインに山ほどチョコをもらう様子は想像に難くなかった。むしろもらえない方が不自然だ。

「本命は?」
「……」
「イヒヒ、図星〜」

 そう言ってクララちゃんが悪戯っ子のように笑う。
 ホンメイチョコというのは確か女の子から告白とともに渡されるチョコのことだったはずだ。ホンメイチョコに関しても彼ならばそれも山になるほどもらえるように思える。それなのにアズくんは自分の分が悪いかのように視線を逸らした。

「アズくん、大丈夫だよ、きっともらえるよ!」
「イルマ様……!」

 イルマくんに励まされて彼が顔を上げる。

 すっかり声を掛けるタイミングを見失ってしまった。彼らは楽しくお喋りをしているようだし、そろそろここを立ち去ろう、そう思ったときだった。

「あー、センパイちゃんだ!」

 ぱちりと、クララちゃんと目が合った。途端に瞳を輝かせて彼女がこちらへ駆け寄ってくる。

「先輩! まさか今の話聞いて……!」

 アズくんもひどく慌てた様子で一歩遅れて駆け寄ってくる。意図せず盗み聞きしたような形になってしまい、気まずさを覚える。特別内緒話のようには思えなかったけれど、男の子からしたら恥ずかしい話だったのかもしれない。イルマくんも彼の後ろであわあわとしている。
 クララちゃんはそんなふたりを意にも介さずキラキラした瞳でこちらを見上げている。

「ねえねえ、センパイちゃんもチョコつくる?」
「今学校中で話題になってる『バレンタイン』のことでしょう? 楽しそうだから用意しようと思ってるよ」

 ホンメイチョコの他にも、クラスメイトなどに渡すトモチョコや、お世話になった人に渡すギリチョコなどがあるらしい。基本的には女子から男子へ渡すものだが、絶対に男子から渡しては駄目というものでもなく、もはや渡したいと思った人が様々な思いを込めてチョコを渡すお祭りのようなものだとも聞いた。
 学校中の人が乗っかるお祭りならばそんな楽しそうなこと、参加しない手はない。

「本命は?」
「コラ、このあほクララ!」

 無邪気に尋ねるクララちゃんをアズくんが慌てて嗜める。無遠慮にも思える質問だったが、普段から誰に対しても隔たりのない彼女だったから悪い気はしなかった。

「クララちゃん、その話は女の子だけのときに。そうだ、新しく出来たカフェに今度一緒に行かない?」
「行きたい!」

 とはいえ、こんな往来で周りに聞こえるような声で恋バナをする趣味もない。
 クララちゃんに微笑み掛けると、彼女は喜びを顔いっぱいに表す。

「アズくんもそんな怒らないで」

 彼の方を振り返ってそう言うと、彼は何とも言えない苦い表情をした。

「アズアズはね〜、本命チョコがほしいんだよ」
「おい、何を先輩に……!」

 そう言ってアズくんは慌ててクララちゃんの口を手で塞いだ。もう言い切ってしまったのだから意味がないとは思うのだけれど。クララちゃんは彼の手から逃れようと手足をばたつかせている。

「すみません、今こいつが言ったことは忘れて――」

 誰かもらいたい女の子がいるのか、それともただモテたいのか、――普段から女生徒に人気なアズくんであれば前者のような気がする。後者であれば、望むまでもなく彼はもうすでにモテているからだ。
 にこっと微笑みかけると、何故だかアズくんは目を丸くさせてぴしりと姿勢を正した。

「大丈夫、私もきっとアズくんならもらえると思う」

 先ほどのイルマくんと同じ言葉を口にする。きっと誰でも同じことを言ったと思う。

「先輩……」

 そう息を漏らすように言って彼はガッカリと肩を落とした。その表情は、微笑もうとして上手くいかなかったかのような何とも言えない顔をしていた。いつも完璧な笑顔を見せる彼にしてはひどく珍しい表情だった。

  *

 それからの一週間は大変だった。
 購買からチョコレートは消え、町の商店でも売り切れが相次いだ。

 アメリは朝からチョコの山に埋もれ、私も何故だか何人かの見知らぬ女生徒からアメリと一緒にチョコをもらい、教室でクラスメイトとはチョコを交換した。

 そんな風に慌ただしく時間は過ぎていって、あっという間に放課後になっていた。午前中はちらちらと舞っていた雪も今はもうとっくに止んでいる。薄らと白く染まった中央広場を窓越しに見下ろしながら私は二階の廊下を歩いていた。

 クラスメイト、お世話になっている先生、師団の先輩たちと後輩たち――と渡し終えた人たちと手元に残っているチョコの数を数えながら渡し忘れている人がいないか確認する。残りのチョコは三つ。これから会いに行く人たちが最後で間違いないようだった。

 彼らは今どこにいるだろうか。教室にも師団棟にもいなかった。目立つ彼らのことだから校内にいればきっと見つけられるだろうと思いながらあてもなく歩いていると、「先輩!」と声が後ろから聞こえた。振り返ると、後輩が息を弾ませてこちらへ駆けてくるところだった。その姿にほっと息を吐く。

「先輩」
「ああ、アズくん。会えて良かった」

 そう言って手提げ袋の中からピンク色のリボンでラッピングした包みを取り出す。今日一日持ち歩いていたせいで少しだけくたびれているように見える。

「これを、渡したくて」

 リボンを少しだけ直してから差し出すと、アズくんは喜色を浮かべた。ぱぁと頬に赤みがさして目が輝いている。

「あ、ありがとうございます……!」

 こうも素直に喜ばれるとこちらも悪い気はしない。
 ――『バレンタイン』の話を聞いたとき一番はじめに頭に浮かんだのが彼の顔だった。後輩とは言え、アズくんには沢山お世話になっている。改めてお礼を伝える良い機会だと思ったのだ。

「とても、とても嬉しいです」

 こうして喜ぶ姿も思い描いたままで、渡して良かったと心から思う。ひどい自惚れだけれども普段から私を慕ってくれる彼は、チョコを渡せばきっと人一倍喜んでくれるのではないか、と。
 この笑顔を私は見たかったのだと思う。

「そう、良かった……」

 ぽぅと心の底があたたかくなるのと同時に何だかむず痒くなる。彼が両手できゅっと抱える包みのあたりに視線を彷徨わせながら、そわそわと片手で風になびく髪を耳に掛ける。

 ――このあとに何と言葉を続けたら良いのか分からない。

 彼と喋っていて話題に困ることなんて今までなかったし、彼が何も言わず黙ったままでいることも珍しかった。
 そもそも、チョコを渡すという目的はすでに果たしていて、これ以上話すこともないとなればこの場に留まる理由もない。それじゃあと別れの言葉を口にして去ればいいだけなのに、何故だか離れがたく感じてしまってそれも出来ない。

 私が言葉を探しているうちに、先に口を開いたのは彼の方だった。

「……先輩はバレンタインがどういう日かはご存知ですか?」
「いつも一緒にいる人やお世話になった人、それと――好きな人にチョコを渡す日と聞いたけれど?」

 そう聞いている。この悪魔学校の生徒でそれを知らない悪魔なんてもう存在しないのではないか。もちろん、チョコを用意した私がそれを知らないはずがない。
 質問の意図が読めなくて、思わず彼の顔を見ると、まっすぐにこちらを見つめる瞳とかちりと目が合った。

「では、このチョコは――」

 まずい、と。彼のぐらりと燃え立つような瞳を見てそう思ったのかもしれない。
 気が付けば「そういえば!」と殊更高い声のトーンで彼の言葉を遮っていた。

「そういえば、アズくんは他の女の子からチョコ沢山もらったの? アメリもすごい数でね――」
「もらってません」

 始めは聞き間違えかと思った。

「もらっていませんよ」

 声を出せないままでいる私に彼がもう一度言う。耳から聞こえはしたが、それを脳みそが上手く認識をしない。――いや、事実は正しく伝わったのだ。分からないのはそれをする彼の真意で、さらにそれをわざわざ私に伝える意味だった。
 ぱちりとひとつ瞬きをすると、そこにはわずかに目を細める彼の表情があった。

「全部断りました」
「ぜ、全部!?」
「はい」
「何で!?」

 だって彼はチョコを欲しがっていたのではなかったのか。クララちゃんやイルマくんとチョコをもらえるもらえないだのの話をしていて。そうだ――

「ク、クララちゃんからはさすがにもらったでしょう?」
「……まぁ、クララの奴は例外ですが」
「ほら。驚かせないでよね」

 知り合いからしかチョコを受け取らないと決めた、ということなのだろう。アズくんほど女生徒から人気があるとチョコで本人が埋もれてしまいそうだ。それにうっかりすると争いの火種にもなりかねない。

 ――だから私が特別というわけではないのだ。ただ、知り合いだっただけで。
 そう思っても一度ドキドキと鳴り出した心臓はなかなか治まってくれそうにない。

「あ、そうだ、これ! イルマくんとクララちゃんにも!」

 ふたりのチョコはきちんと彼のものと区別が付くようにラッピングしてある。これ以上余計なことを考えないよう、ほとんど押しつけるようにしてそのふたつの包みを渡す。

 けれども彼はそれを受け取らなかった。

「先輩」

 彼が静かな声で私を呼ぶ。それにはいつものような元気の良さや純粋な尊敬の色はなくて。
 代わりに混じるものに私は耳を塞ぎたいような気持ちになった。

「待ってください。先ほどの答えをまだいただいていません」
「こたえ?」

 白皙の顔が近付いてくる。ルビー色の瞳が何かを待つように熱っぽくこちらを見つめていた。

「このチョコは義理チョコですか、友チョコですか? それとも――」

 なぜ彼はそんなことを知りたがるのだろう。
 目の前に彼の秀麗な顔があって、目を逸らそうとしても叶わない。

「どれ、だと思う?」

 どうして私はそんな彼を試すような言葉を言ってしまったのだろう。

 挑戦的にも聞こえる言葉とは裏腹に、私は微笑みひとつ見せることが出来なかった。口の中はカラカラに乾いて、声もわずかに掠れていた。本当は彼の言葉を飲み込むので精一杯で本当はそんな駆け引きをする余裕なんてないくせに。

 彼にはお世話になっているから、可愛い後輩だから。そう思って用意したはずだったのに、何故だかそれを口にしたくない気持ちがあって。彼は本命チョコを欲しがっているようだったからそう言ってあげた方がいいのだろうか、それともそう言ったなら他の女の子たちのようにチョコを受け取ってもらえないかも、なんてことまで考えてしまって、私は自分で自分のことがすっかり分からなくなってしまっていた。

 ちらりとこっそり様子を窺い見ると、アズくんと視線が合う。彼は困ったように眉をひそめてから、視線を逸らした。

「ああ、貴女には敵いませんね」

 彼が息を吐くように口元をゆるめて笑う。求めていた答えを得られなかったというのに、彼はそれを怒ることもしなかった。

 彼のなんだか寂しそうにも見える表情に胸がぎゅっと締め付けられる。チョコを渡したときはあんなに嬉しそうな笑顔を見せてくれたのに。

「どうか一ヶ月後を楽しみにしていてくださいね」

 そう言って彼がやわらかく目を細める。
 そのときは彼の言葉の意味が分からなかった。

 彼の望みを叶えてあげたいと思うのに、私はただ石のように固まってだだ彼の瞳を見つめ返すことしか出来なかった。

2020.09.21