煌びやかなシャンデリア、優雅に奏でられる音楽、あちこちで人々が楽しそうに話す声、そして今にもかき消されそうなひどく小さい私のヒールの音。

 貴族会にやってくるときはいつもそうだ。
 向かう馬車の中ではひどく憂鬱で、けれども会場のドアが開けられ華やかな世界が目の前に現れると思わず胸が踊って、それなのに一歩足を踏み入れると自分があまりにも場違いな存在に思えて招待を受けたことを後悔する。

 少し遅れてしまったためか、私がメインホールに入ったとき人々はすでにお喋りに興じていて、誰もこちらへ関心を向ける者はいなかった。

 必要な人々に挨拶を済ませ、ほっと息を吐く。

「アスモデウス様!」

 そう黄色い声を上げた女性が、私の隣を抜けて、向こうにある人影に駆け寄っていく。そちらへ視線を向けると何人かの女性に囲まれたアリス様の姿が見えた。

 正装に身を包んだ彼はいつにも増して華があり、魅力的に見える。

 許嫁、として出ていくことは出来なくとも、幼馴染みとして、単なる知り合いとして彼に挨拶しに行くのは何ら不自然なことではない。それなのに、彼の周りに集まる女性たちを押しのけてまで前に出ることなんて、とてもじゃないが出来そうになかった。

 ましてや、彼にエスコートしてもらうなんてことは。

「突然母の代わりを務めることになったのだもの、仕方ないわ」

 小さく呟く。
 だから、彼が私の存在に気が付かなかったって仕方がない。貴族会へ滅多に顔を出さない彼が今日来ていたことを、自分だってさっき知ったばかりなのだから。

 何人かの男性に声を掛けられたけれども軽く躱して壁際へ向かう。着いたばかりなのに疲れただなんて言い訳は苦しかったかもしれないが、気持ちとしては今すぐ帰りたかった。

 ダンスも、アリス様以外とは踊りたくない。けれどもアリス様がこのような場で私を誘うことなどないのだから、結局今夜も私は誰とも踊らないまま帰路に着くことになるのだろう。
 何のために貴族会に来ているのか分からなくなる。

「お飲み物はいかがですか?」

 給仕係に勧められるまま、グラスを手に取る。甘いジュースが口いっぱいに広がって、惨めな気分を少しだけ誤魔化してくれる。

 しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。もう少し我が家と関わりのある方々と交流しなくてはと移動しようとしたときだった。近くにいた女性たちからとんでもない言葉が聞こえてきたのは。

「ねえ、アスモデウス様がご婚約されるというのはご存知?」

 アスモデウス、婚約、という言葉に思わずびくりと体が強張ってしまった。盗み聞いていることに気付かれてしまったかと心配したけれど、彼女たちは仲間内でのお喋りに夢中になっていて、通りすがりの私のことなど気に止めていないようだった。

「えっ、知らないわ!」
「お相手はどなたなの?」
「それが――」

 声を潜めた彼女たちの言葉を拾うために耳をすませる。彼女が口にしたのは有名貴族の御息女だった。家柄も良く美人で非の打ちどころがない淑女だともっぱらの噂と、社交会に疎い私ですら知っている。

「やだー、アスモデウス様が婚約されてはますます手が届かなくなってしまうではないの」
「あら、あなたでは元々相手にされないわよ」
「ひどいわね、夢を見るくらい良いじゃない」

 そう女性たちはきゃいきゃいとお喋りを楽しみながら向こうへ行ってしまった。
 ひとり残された私は、その場にぽつんと立っていることしか出来なった。

「アリス様が新しく婚約を結ぶ……」

 礼節を重んじるアリス様が私に黙って話を進めるとは思わなかったが、私には明日にでも話をしようとしていたのかもしれない。それが何かの間違いで噂だけが先に流れてしまい、それを偶然私が耳にしてしまったと。それならば十分あり得る話だ。

 私たちの関係はひどく脆いものだったと思い知らされる。婚約といっても口約束レベルでしかなく、簡単に上書き出来てしまうものだった。

 たとえ、どれほど私が彼を想っていたとしても。

 しかしこれで今日彼の元にいつも以上に人が集まっていたのも納得がいく。皆この噂の真偽を確かめようとしていたのだろう。
 知ってしまったら確かめずにいられなくなってしまうのは私も同じだった。

 先ほどの場所に戻ると彼はまだそこにいた。隣にはアムリリス様の姿もある。向かいに立っているのはひとりの青年。アリス様とは親しい仲なのだろうか、どことなくアリス様の表情も穏やかなように見えたし、輪からは楽しげな笑い声も聞こえて来る。

「ところで、あの子とはどうなっているんだい? ほら、と言ったっけ?」

 それを耳にした瞬間、ドキリと心臓が大きく鳴って、ぐらりと頭を大きく揺さぶられるような感覚がした。向こうで楽団の演奏が始まり、わっと人々の歓喜の声が聞こえる。

 自分の名前以外はよく聞き取れなかったけれど、それだけで彼らが何の話をしているか察することくらいは出来た。

 ――きっと、元許嫁である私の話をしているのだ、と。

「虫除けだ」

 ぴたりと足が止まる。息の仕方も忘れてしまったかのように浅い呼吸しか出来ない。

「婚約者がいるとなれば貴族会に来ても無闇矢鱈とダンスに誘われる心配もない」

 アムリリス様がそんな息子の言葉を聞いて呆れたように笑う。

「アリスちゃんってば悪い男ねー。そこは自分でいかなくちゃ!」
「芽を摘み取っておくことの何が悪いのですか」

 一歩、また一歩と足音を立てないように気付かれないように後ろに下がる。彼の視界からは外れていたから、それはさほど難しいことではなかった。

 何故アリス様が私を許嫁として置いているのか、今やっと納得がいった。

 あくまで、私はアリス様が本当に結婚される方と婚約されるまでの繋ぎで、煩わしい誘いを断るための都合の良い方便で、不要になれば切り捨てられるだけの存在だった。

「アリスさま……」

 思わず彼を呼ぶ言葉が唇から漏れる。けれどもそれは誰に聞かれることもないまま、綺麗に磨き上げられた床にぽとりと落ちた。

 適度に流行を取り入れ、美しく仕立ててもらったこのドレスも、彼の隣に立つと地味でつまらないものに思えた。お気に入りの髪飾りもひどく霞んで見える。いや、ドレスや髪飾りは関係なく、身に付けている私自身がそうなのだ。どこをとっても彼に相応しくない。
 結局私は私に自信がないのだ。

「――っ!」

 今度こそ私はこの場から逃げ出した。

 人々の喋る声から逃れ、外へ出る。広い庭園は綺麗に整えられていて、美しい花々が咲き乱れているのが夜の薄暗さでも分かる。

 庭ならば人がいないのではないかと思ったのだけれど、意外にも人影が多かった。人目のつかない方へ向かったつもりだったのに、生垣を曲がるたびに男女ふたりの影を見つけて慌てて何度も方向転換することになった。

 どうやら庭は“そういうこと”に使われているらしいと気が付いたのは、人影を避け、庭の奥までやってきてしまってからだった。
 ここまで来てしまっては今さら戻るのも気が引ける。帰りも同じだけ密会する人々を邪魔しないよう避けていかなければならない苦労を思うと、先に進んだ方がマシだと思ったのだ。

 薔薇が見事に咲き誇っている。角を曲がるたびに華やかな香りが追いかけてくる。

 広い庭をしばらく彷徨っていると東屋が見えた。意外なことにそこには誰もいなかった。すっかり息が上がってしまっていた。やっと落ち着ける場所を見つけた心地で、ベンチへ座る。

「素敵な場所……」

 ゆっくりと周りを見渡せば、良く手入れされた庭が目の前に広がっていた。逢引に使われるのも良く分かる。こんな美しい場所で想いを寄せる相手と語り合えたらどんなにロマンチックなことだろう。

 屋敷の明かりは生垣に阻まれ淡く見えるだけで、空に浮かぶ月と星の明かりだけが頼りだった。

 ほっと息を吐いたときだった。

「誰かと待ち合わせでもしているのか?」

 その声に私はぴゃっと飛ぶように立ち上がった。顔を上げるとそこにいるはずのない人物が立っていた。

「ア、アリス様……」

 混乱する頭の中で考えられたのは、今ここで彼に顔を合わせられないということだけだった。
 踵を返して逃げようとしたけれども、すぐにアリス様に手首を掴まれてしまった。

「なぜ逃げる!?」
「今はちょっと、都合が悪くて……!」
「ほぅ」

 低いアリス様の声。絶対に逃がさないと言うように手首を握る手に力が込められる。観念して彼の方へ向き合う。さすがに気まずくて彼の顔は見られなかった。

「ひとりになれる場所を探していたらここへ……」

 そっとつま先を擦り合わせる。細いヒールのその靴は、ひどく頼りなく見えた。
 遠回しにひとりになりたいのだと伝えてみても彼はここから動く気配を見せない。

 もしかしてこの場所に用事があったのはアリス様の方だったのではないか。つまり、それは誰かと――

「アリス様こそ、どうしてこんなところに」
「貴女を追ってきたに決まっている」

 その言葉に私はへなへなとベンチに座り込んだ。
 アリス様もふーと息を吐いて並んで隣に座る。

「ここは会場よりはマシだな」

 彼の言葉に私も心の中で頷く。
 お互いの家や学校では感じない引目を感じてしまうのは、きっと貴族会の雰囲気があまりにも彼に合いすぎていて、自分はそこに場違いな存在に思えてしまうからなのだろう。しかし、夜の静かな庭園にふたりきりでベンチに座っているとそのことを忘れられるような気がした。ここにいるのはただの私と、幼い頃からよく知っているアスモデウス・アリスただその人なのだと。

「貴族会で会うのは久しぶりだな」

 まるで私の心を見透かしたかのように彼が言う。

「はい」

 なんてつまらない返事。けれども、胸に何かがつかえてしまったかのように言葉が出てこない。今日の彼がとても魅力的なことだとか、星の輝く素敵な晩であることとか、ずっとあなたに会いたかったことだとか。何かそういう言葉を言えたなら良かったのに。

 私が短く答えたきり、アリス様は黙って隣に座ったままだった。初夏のやわらかな風が吹いて庭の花々と私のドレスの裾を揺らす。さわさわと葉の擦れる音だけが聞こえた。

 言いたいことは沢山あったはずなのに、結局、私が口にしたのはずっと胸に重くのしかかる彼の言葉についてだった。

「……その、アリス様にとって、私との婚約は『虫除け』なのですか?」
「その話、聞いていたのか」
「答えてください」
「まぁ、今のところ虫除けとして役立っているな」

 私は、何を期待していたというのだろう。否定の言葉か。それは貴女の勘違いだと誤解を解くような言葉か。

「そう、ですか……」

 沈む声は隠せなかった。

 彼の利になることがあるのだろうとはずっと思っていた。私を許嫁として置いているのはきっと何かしらの理由があるのだろうと。そんなことは分かりきっていて、もうとっくに全部飲み込んだつもりだった。

 私が黙りこくっていると今度はアリス様の方から口を開いた。

「まだ何か隠しているだろう」

 ああ、やっぱり彼には何もかも分かってしまうのだ。
 こうなったらもう何もかも吐き出してしまえと、もうひとりの私が囁く。

「あの、それでは、アリス様が別の方と新しく婚約を結ばれるというお話は……」
「なんだそれは」

 私の話を最後まで聞く前に一蹴された。はぁ、と大きな溜め息が聞こえた。

「そんな下らない話を真に受けたのか」
「下らなくありません!」

 思わず立ち上がり、大きな声が出た。アリス様が目を丸くさせてこちらを見上げている。

「大切なことです……」

 言葉は徐々に尻すぼみになって、ついに勢いを失ったまま私はベンチへ座り直す。じわりと視界が滲むのを瞬きをして誤魔化す。

 私は欲張りだ。この人の心ごとすべてほしいだなんて。

 アリス様の方はなんてことはない、両親が口約束しただけのものだと思っているのだということは分かっている。けれども私にとってはそれは彼と自分を結ぶ唯一の糸のように思っていたのだ。

「根も葉もない噂だ」

 私の不安をよそに、彼はきっぱりと言い切る。その瞳の奥に隠されたものがあるのなら絶対に見逃さないつもりで覗き込んだけれども、そこにはやましさのかけらも見つからなかった。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返す。夜の闇が少しだけ薄らいだように見えた。

「……その、安心、しました」
「私が貴女以外の者と婚約を結ぶなどあるはずないだろう」

 やはりアリス様は礼節を重んじる悪魔だ。誠実で、やさしくて、だから私は時折勘違いしてしまう。

 彼の言葉ひとつひとつが私を想いやるものなのではないかと。私だけが彼の心の特別な場所にいるのではないか、と。

 思い上がってはいけないと分かっているのに、顔は熱くなり、ぽわぽわと心が浮かぶ心地がする。その熱を冷ますように手のひらを頬に当てた。

「さっきも思ったが――」

 不意に彼が私の髪に手を伸ばした。さらりと彼の指の先を私の髪が流れる。

「今日の髪飾り、似合っているな」

 おそらく私の後ろ姿を追いかけているときに見たのだろう。今日私が付けている髪飾りには控えめなルビーがあしらわれていた。――アリス様の瞳の色だった。

 彼が眩しくて、思わず俯く。

 いつも彼は私のほしい言葉ばかりを与えてくれる。

 彼のそんな一言がこの上なく嬉しく、先ほど傷付いたことも忘れて、今日彼に会えて良かっただなんて思ってしまう。

 もっと、私から彼に返せるものがあったら良かった。彼は沢山のものを持っているけれども、私の持っているものなんてほんの両手に収まるほどで、その中に彼の欲するものが多くあるとは思えなかった。

 ――だから、せめて、私はアリス様の婚約者としての役割を果たそうと思ったのだ。

「ア、アリス様! このあと私と一曲踊ってくださいませんか……!」

 私が立ち上がり、ありったけの勇気をかき集めて誘うと、彼はかすかに目を見開いた。意外だとでも言うように。
 普段貴族会で踊る機会は少ないけれども、元々ダンスは好きなのだ。幼い頃、小さな家の庭でアリス様とくるくる回って踊っていたのだからそんなに驚かなくたっていいのに。

「虫除け、です」

 そう言って精一杯微笑んでみせる。

 今は私がアリス様の婚約者なのだ。
 彼が貴族会での煩わしさから逃れるための道具でも構わない。便利に使われているに過ぎないとしても、私はそれを不幸せだとは思わない。この関係を手放したくない。

 だからお願い、私の手を取って。
 どうか私以外の人の手を取らないで。

「ああ、喜んで」

 そう言って彼は目を細めた。遠くから楽団の奏でる優美な調べが、風に乗って薔薇の香りとともにここまで届いてくる。

 息が詰まるほど恋しい。

 彼の差し出した手のひらに自分のものを重ねると、思いの外強い力で握られる。それが心地良くて、ほんの少しだけ余計に彼の方へ体重を預けた。

 彼に手を引かれて歩く私の靴が石畳に軽やかな音を響かせた。

2020.06.14