「私おかしくなっちゃったのかも……」
「だ、大丈夫か!?」
机に突っ伏した私を見て級友が慌てた声を出す。普段こんな風に机にへばりついたりしないから驚いたのだろう。彼女の赤い髪が揺れるのが視界の端に見える。
色付きのリップを塗ってみた。
ただそれだけのことと言ってしまえばそれまでだ。けれどもそのことに私は見事振り回されていた。
色付きのリップくらい皆普通に塗っている。危険な魔術が施されているのでもない限り、この悪魔学校で咎められるわけではない。それにほんのりと色が付く程度では親しい仲でないと気付くこともないだろう。分かっているのに、それでもそわそわとしてしまうのはこのリップのパッケージに書かれていた謳い文句のせいだった。
――これで彼もあなたの虜
非常によくある謳い文句だ。きっと隣に並ぶ商品も、さらにその隣の商品にも似たような文句が書いてあるに違いない。けれどもそのときの私は『彼』という言葉に何故だかひとりの男の子を思い浮かべてしまったのだ。買うときも、今朝このリップを塗るときも彼の顔が思い浮かんで、今日悪魔学校へ登校してからは角を曲がるときさえもいちいちこの先に彼の姿が見えるのではないかと期待していた。
その彼、アスモデウス・アリスは私を慕ってくれるかわいい後輩だった。
後輩だったはずなのに、こんなタイミングで彼を思い出すなんておかしい。普通、こういう宣伝文句で想定しているのはもっと別の存在の『彼』なのではないか。
不意に両の頬が包まれる。上を向くと級友の赤い瞳と目が合う。
「先の授業での失敗のことか? 落ち込むなんてお前らしくない。何度も挑戦してみれば良いではないか」
そう言って彼女が微笑んでみせる。
「ありがとう、アメリ……」
よく分からないのならばさっさと会って確かめてしまえば良いのだ。
勢いよく立ち上がると椅子がカタリと音を立てる。昼休みも残り十分を切っていたけれど、彼に会うため私は教室を飛び出した。
*
「放課後になってしまった……」
ズーンと肩を落としながら小さく呟く。
アズくんに会えないままもう陽も隠れてしまっている。こういう日に限って運が悪い。
彼のクラスに行ってもちょうど不在、放課後に師団へ行っても不在、心当たりを片っ端から訪ねてみても不在。
いつも約束しているわけでもないのに偶然会って彼の方から声を掛けてくるものだから、今日も何もしなくても会えると思っていた。そんなものは思い込みで、冷静に考えれば偶然会うのは毎日というわけではなかった。
そもそも、こちらから彼に会いに行ったとして何と言えばいいのか。別に私の方はこれといった用事は持ち合わせていないのだ。用事もないのに会いに行く、はたして私と彼はそんなことが許される関係だったかとはたと気が付いた。
この校舎の端まで行って会えなかったらもう今日は諦めよう。そう思ったときだった。
「先輩」
「ア、アズくん!」
驚きと喜びで声が擦れ上ずってしまった。振り返ると今日一日ずっと思っていた相手が立っている。
「会えて良かった!」
「私に何かご用でしたか?」
「えっ、いや、そういうわけじゃないけど……!」
思わず駆け寄ってしまってから、先ほどまで悩んでいたことを思い出す。結局理由を思い付かないままに、適当に誤魔化すことしか出来なかった。
「今日一日アズくんたちの姿を見なかったから……いや、ホント用事はないんだけどね!」
何か気になって、と勢いよく付け足したものの言い訳になっているのかまったく分からなくなっていた。
彼から何も言葉が返ってこないのも不安を増長させた。
様子を窺うと、彼は目を丸くさせ、じっとこちらを見つめていた。
「その、今日は一段と――」
「アズくん?」
首を傾げて彼の顔を覗き込む。目が合うと彼はハッと我に返ったかのように長い睫毛を瞬かせた。いつもしっかりしている後輩がぼんやりしているなんて珍しくて、こちらまで惚けてしまった。
「いえ……それよりも食堂に新メニューが入ったのはご存知ですか? 見た目が可愛らしく女性が好きそうなメニューだったので、先輩も気に入るのではないかと思いまして」
「そうなの? 知らなかった」
「では明日、注文してみましょう」
こっそり深呼吸をする。もういつも通りに喋れているはずだ。当たり障りのない話題。
けれども、世間話はそう長く続かない。
「先輩はもう帰るところですか?」
元々用事などなかったのだ。「そうだね」と答えてしまえばもう残りは別れの挨拶くらいしかないと分かっていたのに、それ以外の言葉は思い付かなかった。
それでもこのまま別れるのは惜しくてつい手を伸ばしてしまう。
「アズくん」
「はい、何でしょう?」
何となく、機微に聡い彼のことだから会った瞬間にリップのことに気が付いて世辞のひとつでもくれるのではないかと思っていたのだ。私のほんの少しの変化にも彼は気付いてくれるのではないか、と。
勝手に期待していた自分に気が付いて恥ずかしくなる。結局のところ私は褒められたかっただけなのだ。
「その……、もう暗いから気を付けて帰ってね」
「ええ、先輩も」
そうして別れの挨拶が済んでしまう。
アズくんには会えたのに、何故だか胸にはぽっかりとしたさびしさだけがある。無邪気にリップのことを話してどう思うか尋ねてしまえば良かったのかもしれない。でもそれをしてしまうのは何故だかひどく照れくさくて、とても口に出来そうになかった。
不意に「先輩」と呼び止められる。振り返ると想像よりもずっと近い位置にアズくんがいた。
「いけませんね」
そう言って彼の左手が私の頬に触れる。するりと頬の上を移動する指先に、思わず飛び上がりそうになってしまった。触れられた箇所が熱を持っているようで、ぐずぐずと溶けてしまいそうだった。
「私の気のせいかとも思ったのですが」
彼の瞳がひどく近い。
彼の赤い瞳には、魔力が込められているのではないかと思い至ったのはつい最近のことだ。彼に見つめられると何故だか体が動かなくなる。視線が逸らせなくなる。――こういうことは一度や二度だけではなかった。
「先輩がこういうものを使ったりするとは思いもしませんでした」
彼の親指が唇の端を撫でる。そこに塗ったリップのことを言われているのだとようやく気付く。
やはり彼は分かっていたのだ。
彼の目がすっと細められる。
口を開くとカラカラに乾いていて、掠れた声が出た。
「変、だった?」
「いいえ、全くの逆です。……とても良くお似合いです」
あたたかいものが胸に満ちていく。たった一言なのにそれだけで十分だった。もうすぐ日暮れの冷たい風が吹くというのに、ぽかぽかと春の日差しのようにあたたかかった。
ふにゃふにゃと口元がゆるむのを止められない。
「本当に貴女は……」
そう何かを言いかけると、彼は触れていた手を離して一歩後ろに下がった。一瞬、彼が目を伏せる。
「アズくん……?」
「やっぱり送ります。暗い中、女性をひとりで帰すわけには行きませんから」
彼が手を差し出す。それはエスコートするためのもので彼にとってそれ以外の意味を持たないもののはずだった。それに、この優秀な後輩は私を喜ばせることが得意だということも分かっていたはずなのに。
「それに、今日の貴女とは一段と離れがたく感じてしまって」
視線が交わると、彼が目元を少しだけゆるめる。
重ねた手のひらは、いつもよりずっと熱を持っているように感じた。
私も、と唇から漏れた言葉は小さく、はじまりかけの夜の中に溶けていった。
2020.05.04