教室のドアを開けた瞬間、ばしゃりと上から液体が降ってきた。
「あっ」と声を漏らしたのは誰だったか。
アリス様がひどく焦った声で私の名を呼ぶのが聞こえた。正面に立っていた彼の目が丸くなる。
ぽたりと、髪から滴が落ちた。
「大丈夫か!?」
「アリス様、これは……」
慌てて駆け寄ってきたアリス様がポケットからハンカチを出して顔を拭いてくれる。幸い掛かった液体の量はさほど多くなかったようで、髪が少し湿っただけで済んだ。
本当に大したことないのに、目の前のアリス様の顔は蒼白でひどく私を案じているようだった。
「なぁんだ、アズアズの婚約者ちゃんかぁ」
「最初に見たのもアスモデウスだったな」
「つまんないなぁ。解散!」
「ちょっと、一体なに……」
私が言い終える前に問題児クラスの皆が教室からぞろぞろと出て行く。途中、そのうちの一人にぽんと肩を叩かれたけれども、誰もこの状況を説明してはくれなかった。
「本当にごめんね!」
「ごゆっくり〜」
「入間さんとクララさんまで!?」
混乱する私を置いて無情にもドアがパタリと音を立てて閉まる。部屋の中にはアリス様と私だけが残された。
「体は大丈夫か? 何かおかしなところはないか?」
「あの、この液体は一体……」
少し甘い匂いがするけれどもベタつきはない。ただのジュースか何かかと思ったのだけれど、アリス様の様子を見るとそうではないようだった。とはいえ、他の問題児クラスの面々の薄い反応を見ると危険なもののようにも思えない。
液体の正体の目星もつかないまま尋ねると、アリス様は一瞬ひどく苦い顔をした。
「惚れ薬らしい」
きっと聞き間違えだと思った。
「はい?」
「だから、惚れ薬と」
「ほれぐすり」
私が言葉を飲み込めないまま繰り返すと、彼はこくりと首を縦に振った。
「とはいえ本物ではなくおもちゃみたいなもので、十分程度で効果は切れるらしいが」
おそらく問題児クラスの誰かがおふざけで持ってきたものだったのだろう。それが予想外の事故で私が頭から被ってしまった、と。
経緯は何となく理解出来たけれども、状況はまだ理解出来ていない。
「どうする? 医務室へ――」
ドクリ、と。
それは唐突にやってきた。
そう言って彼が私の手を掴み、身を屈めて視線が合った瞬間、突然私の全身が燃えるように熱くなった。
この人が好きだ。
それは以前からこの身にあった感情で、馴染み深いものだったはずなのに、今まで経験したことがないほど激しく私の中で暴れ回った。
液体を被ってすぐは何も体調に変化はなかったし、それが惚れ薬だと分かっても私は元々アリス様のことが好きなのだから変わりはないだろうと、そう軽く考えていたのだ。
これ以上アリス様のことを好きになることはない、と。
「アリス様、えっと、ちかいです」
「は? これくらい普通だろう」
彼の言う通り、この距離にアリス様が立っていることも、手を掴まれることも、私たちにとってはさほど珍しいことでもなかった。それなのに。
「ふれないで」
掴まれた左手をそっと引く。声は小さく微かに震えていて、まるで自分のものでないみたいだった。かよわく、今にも泣き出しそうにも聞こえる。
するりと彼の指先が離れる。
「お願いします。触れたりしないで……」
「……大丈夫だ。嫌がることはしない」
私が普通でないことに彼も気が付いたのだろう。まるくやわらかい声が降ってくる。
「逆に、何かしてほしいことはあるか?」
アリス様がやさしい。彼は元々やさしい人ではあったけれども、今日は特別だった。きっとこうなってしまったのには自分にも責任があると思っているのだ。
「やさしくしないでください」
今の私にとって、彼のやさしさは毒だった。
こんな風に触れて、やさしくされたら勘違いしてしまう。
「いまならまだ大丈夫なので」
今なら、私はまだ満たされている。
「……なら、この手は?」
私の指先はいつの間にかアリス様の制服の裾を掴んでいた。行かないで、と言っているも同然だった。
「あの、やっぱり私、おかしくて」
こんな風に引き止めるつもりはなかったのに、勝手に手が動いてしまった。いつもだったら何も出来ないまま彼の後ろ姿を見送っていたに違いないのに。
それなのに、こうして意識したあとも何故だか裾を握った手を離せないままでいるのだ。
「アリス様……」
まるで自分の声ではないみたいだった。
「すきです」
お慕いしております、愛しています――どの言葉もこの感情を言い表すには足りないような気がして、私はただ何度も同じ言葉を繰り返すことしか出来なかった。
「好きです、アリス様」
「ああ」
これが薬のせいだと彼は重々承知しているのだろう。私の言葉にも顔色ひとつ変えない。
つまらないと、問題児クラスの誰かが言った言葉の意味がよく分かる。元から彼を慕っている者が薬を被ったところで外からはきっと同じに見えるのだろう。本当は今にも暴れてしまいそうな心を抑えつけるのに必死だったとしても。
惚れ薬を被るのがアリス様の方だったら良かったのに。
幻でも良い。彼が私に愛を囁いてくれたなら。
ふいに彼が視線を逸らす。それが堪らなくさびしい。彼にとっては何気ない仕草で、さほど意味を持たないことだったに違いないのに、それが今の私には拒絶のように思えてしまった。
思わず彼の手に縋りつく。
「どうか、私だけを見ていてください」
本当はいつだってそう思っていた。悪魔学校に入学し、多くの悪魔と関わるようになってからはより強く願っていたことだ。同じクラスだったら良かったのに、四六時中一緒にいられたら良かったのに、――本物の恋人であったなら良かったのに。
「私の名前だけを呼んで、私だけをどうか――」
そこまで言ってしまってからハッと我に返って手で口を塞ぐ。
厄介なことは、これらは少なからず私の中に常々ある思いだということだった。
「どうか?」
そう言って彼が先を促す。そんな風に聞かないでほしい。続きにある言葉を言われたって困ってしまうくせに。
口を押さえたままふるふると首を横に振る。
「続きは?」
両方の手首を彼に握られて口を覆っていた手を剥がされてしまう。
頭の奥の方ではこれ以上はダメだと、やめた方がいいと警鐘が鳴っているのにその音はどこか遠く、薬によってぐずぐずに溶けた理性では自制が効かない。
「すきなんです」
壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返すことしか出来なかった。
けれども、ひとつ、またひとつと言葉を溢しても胸の中は少しも楽にならないのだ。
「……アリス様は?」
尋ねてしまった。
これまでついぞ彼に答えを求めたことなどなかったのに。
自分の心の中だけで恋をすることは楽しかった。少しやさしくしてもらっただけで嬉しくて、ただ彼に声をかけてもらえるだけでしあわせだった。そうやってあたためた恋心をそっと取り出して眺めているだけで満たされた。――それはひどくやさしく、けれどもどこへも行けない恋だった。
「アリス様は、私のことを……」
どう思っていますか?
ぺり、と今まで自分を守っていた皮が一枚剥がれ落ちていく。
言葉にしてしまったあとで、後悔に唇を噛む。俯き、目を閉じると瞼の裏に熱いものが広がっていく。それが涙なのだと分かっていたから、もう目を開けることが出来なかった。きっと開けたら零れ落ちてしまう。
アリス様はやさしい。幼い頃から見知った相手には情もある。けれども、ただそれだけだと思い知りたくはなかったのだ。
彼の指先が頬に触れる。
ぞくりと背筋が震えた。
「――貴女だけだ」
小さく、しかしはっきりと彼の声が耳に届く。
「私の婚約者は」
そのあとすぐに彼が続けた言葉はいつも通りであったはずなのに、それすらもひどく甘く聞こえたのは私の願望だったのかもしれない。
彼の手のひらに促されて顔を上げると、ルビー色の瞳が私をまっすぐ捉えた。涙で滲んだ視界は、それでも彼の表情をきちんと映していた。
瞬きをすると、滴が頬を伝って彼の手を濡らした。
「それ以上、何か必要か」
「たりません」
頬に触れる彼の手に自分の手のひらを重ねる。
足りない。もっとほしい。彼を自分のものにしたい。彼だけのものになりたい。
我慢の出来ない子どものように、欲を制御出来なかった。はしたない。普段だったら絶対に言えないようなこともするりと口をついて出てしまう。
彼は私の言葉を聞いて、ぐっと眉根を寄せた。
アリスさま、と私が名前を唇から零すたび彼の瞳の奥がゆらめく。
そっと静かに彼の顔が近付いてくる。どこからか甘い匂いがする。
彼が私の名前を呼び、熱い呼吸が唇に触れる。
カチリと時計の針の鳴る音が聞こえた。
2020.04.19