今日の図書室はいつもより静かだった。
 図書師団の活動も休みのようでいつもの顔を見なかったし、試験までまだ日のあるこの時期から好んで勉強するような悪魔はそう多くない。
 どこまでいっても高い本棚で囲まれたこの場所は、自分の呼吸の音でさえ吸い込まれてしまいそうだった。

 広く入り組んだ図書室の半分と少しまで進んだところでお目当ての本を見つける。紫の表紙のそれは私の目線よりもずっと高いところにあった。

 うーんと思いっきり手を伸ばしてみてもなかなか本の淵に指が引っかからない。もう少しで届きそうという状況が今さら別の手段に変えることを億劫に思わせた。

「あとちょっとなのに……」

 そのとき後ろからすっと手が伸びてきて、その本を本棚から取り出した。

「これですか?」

 ありがとう、という言葉は口から出る前にどこかへ消えてしまった。

 振り返った先にあったのは、ひどく綺麗な顔だった。

 ピンクかかった髪がさらりと落ちるのが視界の端に映る。明かり取りの窓から零れる光が彼の髪を透かしている。

 じっと答えを待つかのようにこちらを見つめていた瞳は、目が合うとやわらかく細められる。伏せた視線の長い睫毛が影を落としている。

 ドキリと心臓が大きく鳴った。

「ん? どうかしましたか?」
「……アメリかと思ったから驚いて」

 振り返った先にいたのはアメリではなく、後輩のアスモデウス・アリスその人だった。
 声が彼女のものとは明らかに違ったのに、それを脳が認識する前に振り返ってしまった。ドキドキと今も心臓がうるさいのはきっとその驚きのせいに違いない。

 彼が一歩下がって、本を取るために近付いていた距離が離れる。

「会長」

 そう彼は私の言葉を繰り返す。
 確か彼は私のクラスメイトでありこの悪魔学校の生徒会長であるアメリとは知り合いで、その仲も悪くなかったと記憶している。

「前にこうしてアメリも本を取ってくれたことがあって」

 何でもないことのようにすっと本を手渡す彼女は実にスマートで、女生徒にも人気があることに心から納得したのだ。至近距離で微笑む彼女に、私ですら不覚にも胸が高鳴ってしまった。
 ――どうやら、この心臓はアメリとはまた違ったタイプの中性的な美形にも弱いようだったが。

「よく助けてくれるからそうだと思い込んでいて」

 いつもよりぺらぺらと口が回るのもきっとそれで動揺しているせいなのだ。
 息を深く吸うとそれも少し落ち着いたような気がした。

「本、取ってくれてありがとう」

 彼の差し出す本を受け取り、改めてお礼を言う。けれども彼はその本から手を離さなかった。

「アズくん?」

 私が名前を呼ぶと、彼の口がぱかりと開く。

「どうか次も私を頼ってください」
「あはは、さすがに次は大人しく踏み台を取りに行くよ」

 どうしても届かないときは魔術を使ったって良いのだ。もっと高いところなら羽を出して飛んでも良い。今回は偶然居合わせた彼に助けてもらったけれど、そもそもアズくんが偶然居合わせることの方が珍しい。

 それを言うと、彼は何故だか苦しそうに眉を寄せた。

 彼がまた一歩距離を近付ける。後ろには本棚があってこれ以上下がれない私は首を傾けて彼を見上げるしかなかった。

 彼の赤い瞳からぐつりと煮えるような熱が覗く。

「お願いです」

 私は何か間違ってしまったのだと気が付いた。先ほどの言葉は笑い流して良いものではなかったのだと。
 何かを言わなくてはと、その気持ちだけが先走る。

「私は――」

 自分がその先の言葉を何と続けようとしていたのかは分からない。

 無意識のうちに引いた足が本棚に当たってカタリと音を立てた。
 その音に彼はハッと我に返ったように身を引く。

「す、すみません。先輩を困らせるつもりはなかったのですが」

 そう言う彼の瞳の中にはもう先ほどの赤はなく、申し訳なさそうに眉を下げるアズくんはいつもと同じように見えた。

「それに、お願いするようなことでもありませんでしたね。忘れてください」

 そう言って彼が目を伏せる。そういう表情をさせたいわけでもなかったのにと後悔する。きゅうと胸が締め付けられるように痛む。

「あの、アズくんありがとう。……もし何かあればね」

 そのときがどういうときなのか全く想像が付かなかったけれども、もしかしたら誰かの手助けがどうしても必要になるときがやってくるかもしれない。彼は優秀な生徒で、きっと何でも出来てしまうのだろう。
 それに、彼がそう言ってくれたこと自体は純粋に嬉しい。

「はい!」

 そう言って笑顔を見せる彼に安堵する。

「アズくんはここで勉強?」
「入間様たちとの勉強会で役立ちそうな本があればと思い、探しにきたのです」
「それだったら去年私がお世話になった本がこっちの本棚に……。教科書に載ってることの補足の知識が得られて理解を深められると思う」
「本当ですか!」

 コツと私と彼の足音が静かな部屋の中に響く。
 こっそりと彼の方を盗み見る。すぐ隣を歩いている彼は私よりも背が高く、首を傾けないと顔が見れない。気付かれないように、不自然でないようにするのはなかなか難しかったけれど、少しだけ見えた彼の瞳には先ほどの燃えるような色はないように見えた。

「先輩」

 それなのに、彼が会話を繋ぐため何気なく口にする私の名前がどこかいつもと違うように聞こえるのは、静かすぎるせいなのか。それとも私の耳の方がおかしくなってしまったのか。

 答えが出ないままに私も彼と同じように「アズくん」と呼びかけるのだった。

2020.04.08