先輩!」

 その声に振り返ると、ここ最近ですっかり見慣れたピンク色の髪が見えた。良く通る声に私だけでなく食堂にいた数人が振り返る。

「ご一緒してもよろしいですか?」

 どうぞと答えると彼はにこりと綺麗な笑みを浮かべて正面の席に腰掛ける。その眩しさに思わずうっと小さく呻き声を上げる。

 ふと周りを見回すが、彼の近くにあるはずの人影はなかった。

「入間様とウァラクは今日は別用がありまして」

 きょろきょろしている私を見て彼が先回りして答える。
 彼がひとりでいるところを見たことがなかったので意外だった。てっきり、ふたりもすぐにやってくるものだと思っていた。

「私は先輩の姿が見えたので」
「そう……」

 自分でも素っ気ない返事だとは思ったが、それ以外に何と答えたら良いのか分からなかった。
 とあることがきっかけで出会ったこの一学年下の後輩は私に妙に。

「アスモデウスくん」
「先日も言いましたが私のことはどうかアズ、と」
「……アズくんは」

 ――妙に懐いている。

 先輩として慕われているというよりは懐かれたと言う方がしっくりくる。
 今年、学年首席で入学し、何かと目立つ存在であるあのアスモデウス・アリスと関わることがあるだなんて数週間前までは想像もしていなかった。少しだけ言葉を交わしたのは確かだが、彼のような実力もある人物に何か特別なことをしてあげた記憶もないのだ。何故こんなにも懐かれたのかは謎である。

「アズくんはこんな時間に昼食?」
「ええ。先輩こそ少し遅めの昼食ですね」
「私は前の授業で少し先生に質問があって」

 授業中分からなかったところを質問したのだけれど、なぜか教師の説明に熱が入ってしまい、聞いてもいないところまで丁寧に説明された結果、食堂に来るのが出遅れてしまった。おかげで今日の授業に関しては普段の倍以上理解が深まったし、ピークをずらした食堂は人も疎らで落ち着いて食事が取れているのだけれど。

 それを彼は「勉強熱心なのですね」などと持ち上げてくれるものだから、何だかくすぐったい。
 むずむずする心を隠すように皿の上の料理を掬って口に運ぼうとすると、ふと彼の視線がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。

「先輩、失礼――」

 そう言って彼の手がすっとこちらへ近付いてくる。

 綺麗に整えられた赤の爪先を見つめることしか出来なかった。彼がテーブルから身を乗り出して距離が近付く。彼の瞳はとても澄んだ綺麗な色をしていて、目が逸らせない。
 一瞬だけ、彼の指先が頬を掠める。

「先は植物塔での授業でしたか? 髪に葉が」

 そう言って彼は取った葉を見せる。その言葉にハッと我に返った。

「あっ、葉っぱね、葉っぱ! ありがとう」
「いえ、これくらい。先輩のお役に立てたのなら良かったです」

 彼が椅子に戻った途端、遅れて心臓がバクバクと激しく鳴る。先ほどまでは止まっていたのではないかと思えるほどだった。

 後輩の他意のない行動に動揺するだなんて弛んでいる。胸を押さえてこっそり深呼吸すると少しだけ落ち着いた。

「しかし、先輩も案外抜けているところがあるのですね」

 そう言って彼は微笑む。
 彼の目に私はどういう風に映っているのだろう。隙のない完璧な悪魔にでも見えているのだろうか。全くそんなことはないのだけれど。

 とはいえ、私にも先輩としての矜持はある。恥ずかしいところばかりを見せてもいられない。

 お返しとばかりに彼の髪に左手を伸ばす。触れると絹糸のように触り心地の良い髪が指の間を流れた。

「アズくんも、少し髪が乱れてる。私にとってはこっちの方が意外だけれど」

 私が指摘すると、彼はほんの少し目元を赤らめた。驚きで丸く開かれた瞳はやっぱり宝石のように綺麗だった。

「えっ、あっ……少し走ったものですから」
「もしかして、クララちゃん?」
「え、ええ、まぁ。そんなところです」

 彼は手のひらで口元を覆いながら答える。
 彼がいつも一緒にいるクララちゃんと追いかけっこをしている姿は見たことがある。全速力で走る彼を初めて見たときは少し驚いたが。

「アズくんは少しイメージと違ったなぁ。もっとクールで取っ付きにくいイメージだったけれど」
「では、今はどういう……?」

 彼が伺うような視線でこちらを見る。何か期待されているような熱の籠もった視線だった。

「何だか弟みたい」

 私がそう言うと、彼は一瞬の間のあとぽかんと目を丸くさせた。――以前は彼がこういう表情をするところなんて想像も出来なかった。

 たっぷり十秒は呆けたあと、ようやく彼は口を開いた。

「は? おとうと……」

 アズくんのこんな気の抜けた声は初めて聞いた。

「気に障ったのならごめんなさい。悪い意味じゃないのよ? アズくんが私を慕ってくれるから、つい」
「確かにお慕いしていますが……」

 いくら後輩とはいえ、弟に例えるなんてさすがに不快にさせただろうか。未熟だとかそういう意味はないのだと説明すると彼はひとまず「分かっています」と答えたけれど、眉間にしわが寄ったままだ。
 未熟だとは思っていないが、少しかわいいと思っていることはこの分だと黙っていた方が良いだろう。

「いえ、今はそれでも――」

 彼が何か小さく言った声は上手く聞き取れなかった。

 次の瞬間、視線を上げた彼と目が合う。
 にっこりと微笑む彼はおそろしいほど綺麗だった。

 視線が逸らせない。まるで捕らえられてしまったかのような気分になる。――彼に見惚れてしまっているのだと理解するまで時間がかかった。

「先輩、早く食べないとせっかくの昼食が冷めてしまいますよ」
「そ、そうだね」

 彼の言葉に慌てて置いていたスプーンを持ち直す。
 そのあとは予鈴が鳴るまで「そういえば、先輩はお気に入りの食堂メニューなどはありますか? 好きな食べ物は?」などと他愛のない会話をして過ごした。

 その間もずっと、彼のあの美しい笑顔は瞼の裏から消えなかった。

2020.03.29