「おいしーい!」

 クラスメイトである彼女は私の作ってきたクッキーを頬張っては、そう言った。手で頬を押さえてにこにこと口元をゆるませる彼女の顔はとてもしあわせそうだ。
 特別なところなど何ひとつないただのクッキーなのだけれども、こうも嬉しそうにされては悪い気はしない。

「すごくすごくおいしい! 才能あるよ!」
「ありがとう、そこまで喜んでもらえるなんて思わなかったから」

 彼女の笑顔にこちらまでつられて頬がゆるんでしまう。

「ねえ、作ったお菓子ってアスモデウス様に渡してたりするの?」

 そんな中で何気なく彼女が放った言葉は、私にとって予想外で、爆弾のように危ういものだった。

「ま、まさか! そんなこと出来ないわよ」
「えー、渡せばいいのに」

 アリス様に自分の作ったものを渡すだなんて考えたこともなかった。アスモデウス家では最高級のものが出されるだろうし、それらを食べて育った彼にとっては私の作ったものなど口に合わないように思う。

「こんなにおいしいし、食べたらアスモデウス様もイチコロだと思うけどなぁ」
「い、イチコロ……?」

 手料理で意中の相手の心を射止めるというのは聞いたことがある。

「本当にそう思う……?」
「もちろん!」

 彼女はまたひとつクッキーを頬張っては力強く頷く。

 母に連れられてアスモデウス家へ行く日は完全に母たちの気紛れでその日を予測することなんて出来なかったし、当然貴族会へそんなものを持っていくことは出来ない。けれども、学校でなら渡すことが出来るかもしれない。偶然を装って。

 もし、私の作ったお菓子を渡したとしたら、アリス様は何と言うだろう。一言でも、おいしいと言ってくれるだろうか。

「そう……」

 何だか恥ずかしくなって俯くと、彼女の楽しそうに笑う声が落ちてきた。



「気合いを入れすぎてしまったかしら……」

 問題児クラスへの道を歩きながらひとり呟く。腕の中にあるのはしっかりとラッピングした箱。

 我ながら単純だとは思う。昨日級友に褒めてもらったからといって、本当にアリス様へ渡すためのお菓子を作ってくるなんて。

「お口に合わないかも」

 出来上がったものを味見してみたが、分量はいつもと同じはずなのにひどく甘く感じた。びっくりしてそばにいた使用人にも味見をお願いしたのだけれど『甘すぎずいつもと同じ最高の出来栄えです』と言う。何度も作り直したけれどもう自分でも分からなくなってしまって、決してお世辞や嘘ではないと誓わせたメイドの言葉を信用して学校まで持ってきてしまった。

 丁寧にラッピングしたつもりの箱もまだ何だかリボンが曲がっているように見えて、指先で引いて直す。朝から何度も繰り返している行動だった。あまりにも何回も触っていると逆に汚くなってしまうのでもうやめようと思っていても、どうしても気になってしまう。

 ――そんな風に浮かれているから反応が遅れてしまった。
 この悪魔学校では廊下の壁に穴が空いたり、人が投げ飛ばされてくることなんて日常茶飯事だというのに。

 わぁっという生徒の歓声とともに爆風が吹いてくる。

「きゃっ!」

 何の身構えもせずにいたせいで、思わず箱を取り落としてしまった。まっすぐに床へ落ちていったそれはトンと音を立て、角がひしゃげる。

「あっ……」

 慌てて落ちたそれを拾い上げたけれども、一度潰れたものは元に戻らない。
 元々中身に対して立派すぎる箱だったのだ。これで中身に対して釣り合いが取れたとも言える。けれども、アリス様への贈り物としてはふさわしくなくなってしまった。

「あれ、そこにいるのはアズアズの許嫁ちゃん!」
「クララさん?」

 明るい声に顔を上げるとクララさんが立っていた。
 気が付けばいつの間にか問題児クラスの教室のすぐ近くまで来ていたようだった。

「アズアズに用? 今呼んでくるから待ってて!」
「あっ、ちょっと……!」

 言うや否や私が止める暇もなく、ばびゅんと勢いよく走って行ってしまった。すぐに「アズアズー! 呼んでる!」「誰がだ?」「だから呼んでる!」「だから誰が!」というやり取りが教室の方から聞こえてくる。

 声が止んだと思えば、今度はガラリとドアの開く音、続いてコツコツと階段を上る音が近付いてくる。
 逃げてしまいたいと思ったけれど、足は地面に根が生えてしまったように動かなかった。

「珍しいな」

 階段を上りきって姿を現したアリス様は私を見とめて少しだけ目を丸くさせる。思えば、これまで問題児クラスまで彼に会いに来たことはなかった。

「偶然、通りかかって」

 こんな一年塔の端に偶然通りかかったも何もないとは思う。彼の顔が見れずに俯く。
 昨日からずっと彼のことを考えていたというのに、いざ本人を目の前にすると眩しくて直視出来ない。

「それは?」

 そう言って彼は私の手元を指差す。その言葉で自分の手の中に明らかに贈り物だと分かる箱があることを思い出した。

「これは……、何でもありません!」
「何でもなくはないだろう」
「アリス様の見間違いです!」

 後ろ手に隠してしらを切る。一度見られてしまったものを無理があるとは思ったが、適当に誤魔化してさっさとこの場から逃げてしまうつもりだったのだ。

 ――彼の次の言葉を聞くまでは。

「私へのプレゼントではないのか」

 本当にきょとんとした顔で言うものだから、私は言葉を返すことが出来なかった。
 口をはくはくと、閉じたり開いたりを繰り返す。

「なん……なんで……」
「違うのか?」

 ここは問題児クラスの教室のすぐ近くで、問題児クラスに親しい人はアリス様くらいしかいないから、消去法で自分宛てだと思ったのかもしれない。きっとそうに違いないと思おうとしたのに。

「貴女の婚約者は私だろう」

 こうも当然のように言われると、なんだか負けてしまったような気がするのだ。

「その通り、ですけど……」

 こんな風に張り切って作ってきたのもアリス様のためだからだ。何度も作り直して、味見して、包装にもこだわって。アリス様のためでなかったらここまではしない。誰にでも等しくというわけではないことを私はもう自覚していた。

 アリス様が、それ以上言えなくなってしまった私の手から箱を取る。そのままかけられたリボンをしゅるりと解いていく。

「中身は……クッキーか。丁度良い、ウァラクのせいで昼食を食べ損ねたのだ」
「でも、箱が」
「構わない」

 鮮やかな手付きでそれを開けると、中から一枚を摘んで口の中に入れる。クッキーがさくさくと音を立てて咀嚼されていくのを、私は祈るような気持ちで見守ることしか出来なかった。

 食べた後の彼の第一声はもう六百六十六回とシミュレーションした。それでも実際に食べた彼が何と言うのか、想像したどのパターンもしっくり来ないような気がして分からなかった。

 ごくりと、彼がそれを飲み込んで口を開くのを待つ。

「甘すぎるな」

 その一言で私はぴゃっと飛び上がった。

「やっぱり! 私もそうではないかと思っていたのです! ですが、皆そんなことはないと言うので……」

 あのメイドは甘党だったに違いない。いつもと同じ分量だと思ったのもきっとどこかで計り間違えてしまったのだ。

「か、返してください……!」
「嫌だ」

 まるで子どものようなことを言う。

「一度もらったのだから私のものだ」

 そう言ってアリス様はもう一枚クッキーを口の中に入れる。ひょいとさらにもう一枚。
 取り返そうと手を伸ばすと、今度は私の手の届かない高いところへ上げてしまう。私が左へ手を伸ばせば右へ、右へ手を伸ばせば左へ。
 彼は少し意地になっているようだった。

「もう全部食べてしまった」

 そう言って彼は空になった箱をひっくり返してみせる。
 せっかくアリス様に渡すのならば完璧においしいものを食べてもらいたかったのに。食べられないほど激甘だったわけではないようだが、中途半端なものをアリス様へ渡してしまったという思いが胸に残る。

 甘すぎるクッキーでも、彼の空腹を一時でも満たすことが出来たなら良いではないか。そう自分を納得させようとしたけれど。

「今度こそ上手く作ってみせますので……その、また食べてくださりますか?」

 私も案外懲りないのだ。

 なぜか先ほど味の感想を待っていたときよりもずっと心臓がうるさかった。祈るような気持ちで視線を上げると、じっとこちらを見つめていたアリス様と目が合う。

「ああ」

 彼がふっと息を吐くように笑う。ふわりとやわらかい春のような笑みだった。

2020.03.28