離れていても自然と目で追ってしまう。
問題児クラスの中でもよく目立つ彼らは廊下を歩いているだけでも人の視線を攫っていく。その中でも彼は一際目を引くように思えた。
――ああ、アリス様だ。
さぁと風が吹いて淡いピンク色の花弁が舞う。その向こうで学友と笑い合いながら渡り廊下を歩いていく彼の姿はひどく綺麗だった。
中庭からその姿が見えなくなるまで目で追ってしまってからハッと我に返る。
最近こんなことばかりだ。悪魔学校に入学してから学内で毎日のように彼の姿を見られるようになったからか、気が付くと目で彼を探してしまっている。授業中も気が付くと彼のことを考えてしまっている。――これではいけないと分かっているのに。
そろそろ教室に戻らなくてはと踵を返すと、ぽとりと何かがポケットから落ちた。
見ると教室を出る際に急いでスカートのポケットに入れたペンだった。軽い坂になっているようで、それはコロコロと転がっていく。
「あっ、待って」
手を伸ばしたが虚しく、ペンは生垣の中へ消えていく。屈んで生垣の中を覗き込むと、坂は長く続いていなかったようで、少し先にころんと転がっていた。
何とか届きそうだとその場に膝をついて手を伸ばす。
「良かった……」
きっと、無事手が届いたことに気が抜けてしまったのだ。腕を引くときにピリっと小さな痛みが走った。
「――っ!」
生垣から引き出した右腕に視線を落とすと、一本切り傷の筋が出来ていた。
生垣をよく見ると、その植物の茎には棘が生えている。どうやらこれに引っ掛けたらしい。やはり最近の私はどこか惚けてしまっているようだ。
こんなにうららかな春の陽気の中庭で怪我をするだなんてついていない。はぁと溜息を吐きながら体を起こす。
「――こんなところで何をしているんだ」
突然降ってきた声にびくりとしながら振り返ると、先ほど一年塔へ入っていったはずのアリス様が立っていた。
何故去っていったはずの彼がここにと考える前に、咄嗟に負傷した右手を隠した。
「アリス様こそ。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
何というタイミングなのだろう。スカートについてしまった草を払いながら立ち上がる。
「落としたペンが茂みへ転がってしまって」
拾い上げたそれを彼に見せてから胸ポケットへ仕舞う。へらへらと笑ってみせたけれども、アリス様は何故だか険しい表情のまま黙ってこちらへ近付く。
「えっ……」
私の戸惑いを無視してアリス様はさらに距離を詰める。私が一歩退がれば彼がもう一歩、さらにもう一歩退けば彼もまた一歩と、どんどん後ろに退がって行けば、いつの間にか校舎の壁にまで追い詰められていた。もう逃げ場がない。
はらりと、彼の前髪が私の顔に落ちる。
彼が私の名前を呼んだけれども、私はそれに上手く応えることが出来なかった。
「あの、アリスさま?」
息をするのも憚られて、小さな声で問い返す。ドキドキとうるさく鳴る私の心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと思った。
「怪我をしたのか」
そう言って彼は私の頬に左手を伸ばして触れる。私が驚いて何も言えないでいる間に、彼は親指で私の頬をぐいと擦った。チリと小さな痛みが走って、そこも切れていたことを知る。
おそらく滲んでいた血を拭ってくれたのだろう。けれども、そんなことをしたら彼の指の方が汚れてしまうのに。
「どうしてお前はいつもこう――」
独り言のように小さく呟く彼の声には苛立ちが混じっていた。
「ほら、そっちの手も出せ」
私が隠した右手もお見通しだったらしい。バレてしまっていたのでは仕方ないと、後ろに回していた手を体の横に元に戻す。先ほどはよく見ていなかったが、時間が経った傷口からはじわりと血が出ているようだった。
「痕になったらどうする」
「これくらいで痕になるわけがありません」
ただの切り傷なんてすぐに治る。それこそ致命傷にもなりかねない深い傷や呪いの掛けられたものならいざ知らず、ただの怪我など悪魔にとって取るに足らないことだ。気にするほどのものではない。
そんなこと、アリス様だって百も承知のはずなのに。
「……いいから大人しくしていろ」
そう言ってアリス様が私の右手を取る。触れられた箇所が甘く痺れたように動かなくなる。
血の滲んだそれを見て彼は一瞬眉を顰めた。傷口なんて見ていて気持ちの良いものでもないだろう。
「本当に大丈夫ですから」
うまく力の入らない手をゆるく引いてみたけれども、しっかりと彼の大きな手で握られたそれはまったく動かなかった。彼の掴む手の力は決して強くないはずなのに逃げられない。
彼はポケットから取り出したハンカチで手早く傷口を覆うと綺麗に端を結んだ。ぽんぽんと触れるか触れないかくらいの力でその包帯を叩く。傷口に響かないように慮ってくれたのが分かって、胸の奥がぎゅうと痛む。
この人がこうして手当てしてくれるのは初めてではない。幼い頃おてんばだった私は庭で遊んで怪我をしては、一緒にいたアリス様に怒られていた。転んで擦りむいた膝の応急手当をしてくれるのはいつも彼だった。
「どうして少し目を離した隙に傷を増やしてくるんだ」
小さい頃と変わらない言葉を彼が言う。
大きくなって私が淑女の作法を身に付けてからはそんなこともすっかり昔の話になってしまったはずだったのに、彼の私に触れる手はあの頃と変わらないのだ。
「アリス様はお優しいのですね」
「……別に、貴女のためではない」
悪魔は興味のない相手にはこんなことはしない。無関心の相手がどうなろうと知ったことではない。
私とは幼い頃から知った仲だから、アリス様は少しの心を傾けてくれる。そう思っていた。
「私が、嫌なのだ」
――彼が口にしたのは、ひどく悪魔らしい理由で。
「もう少し自分を大切にしろ、馬鹿」
「はい」
今日のアリス様は少し不機嫌だ。おそらく私の鈍臭さもそれを助長させているのではないかと思う。
きちんと反省しなければならないと分かっているのに、それ以外の感情が浮かんで私の頭の中は忙しない。
「何を笑っている?」
「いえ、ありがとうございます、アリス様」
――彼自身が何と言おうとも、受け取る私にはそれが『やさしさ』のように思えるのだ。
許嫁なのだから、その立場を与えられれば彼ばかりを見てしまうのは当然のことだと思っていた。アスモデウス家の嫡子で、才色兼備、気品溢れる佇まいに美しい姿。誰もが惹かれる彼が婚約相手なのだから不満などあるはずがないと。
けれども、彼はそれだけではないことを私はもう知ってしまっている。――彼の心の在り方を知っている。
ひとつ、またひとつと降り積もる。彼に声を掛けられるたび、彼の手が私に触れるたびに、心の中にぽっと火が灯ったようにあたたかくなっていく。
「アリス様」
私が名前を呼べば、彼は振り返ってルビー色の瞳に私を映す。
朝日の光を受けた宝石のようだと思った。
――たった今、理解した。
ああ、私は本当に、この人のことが好きなのだ。
2020.03.22