食堂で昼食を取ったあとのことだった。
廊下の角を曲がろうとしたところでドンと何かにぶつかった。
「ごめんなさ……」
そう言いかけた謝罪の言葉は、驚きでどこかへいってしまった。
ぶつけたおでこを押さえながら顔を上げると、そこには幼い頃からよく見知った人が立っていた。
「アリス様!」
見上げる先には間違いなくアリス様の綺麗な顔がある。彼は視線を下げて私を見とめると、私の名前を小さく呟く。それだけのことに私の心臓はドキドキとうるさく鳴った。
目の前の人物――アスモデウス・アリスは私の幼馴染だった。
しかし、この悪魔学校に入学してから彼と話すことはほとんどなかった。アリス様は才色兼備で学年首席、女生徒からも人気が高く、いつも話題の中心にいるような人だ。そんな彼へ、幼い頃から見知った仲とはいえ用事もないのに話しかけるのは憚られたのだ。
それが偶然、こうして今目の前に彼が立っているだなんて、何だか信じられない気持ちだった。いつもは私が一方的に遠くから彼を見ているだけだったのに。
「ちょうど良かった。このあと探しに行こうと思っていた」
「アリス様が? 連絡してくださればこちらから伺いましたのに」
まさか彼の方から私に会いにくることがあるだなんて。今日はなんと幸運な日なのだろう。
弾む声を隠さずに言うと私の言葉に彼は頷く。ぎゅっと自分の両手を胸の前で握ると確かに感触がある。聞き間違いでも、夢でもないらしい。
「“アリス様”……?」
声のする方を見るとアリス様の後ろにいた男の子と女の子が不思議そうな表情でこちらをみていた。
彼らの顔には見覚えがあった。直接話したことはないけれど、ふたりがアリス様と一緒に廊下を歩いているところを見かけたことがある。やさしそうな雰囲気の男の子と元気の良さそうな女の子だった。
「はじめまして」
そう挨拶とともに自分の名前を名乗る。するとアリス様の隣にいたふたりはハッと我に返ったように居住まいを正して、それぞれ入間、クララと名乗った。
アリス様のクラスメイトに紹介されるのは初めてで緊張してしまう。特にアリス様はこのふたりと仲が良いようだったから、失礼のないようにしなくては。
ぺこりと下げた頭を元の位置に戻すと、何やらうずうずと好奇心を隠しきれていない四つの瞳が目の前にあった。
「それで、アズくん、この子とはどういう……?」
そう言って入間さんがアリス様を振り返る。
名乗りはしたけれども、彼との関係が気になったのだろう。彼は他人を寄せ付けない雰囲気がある。特別仲の良い彼らだからこそ、クラスメイトでもない私の存在を不思議に思ったのかもしれない。
どう答えたら良いのか困ってしまって、アリス様を見上げる。すると、ふいに彼のルビー色の瞳がすぅっと細められた。
「私の許嫁です」
彼の言葉にドキリと心臓が跳ねた。「えっ」と驚くふたつの声に、思わず私のものも重なる。そんな私の様子にアリス様は怪訝そうに眉を寄せた。
「なぜ貴女まで驚く」
――確かに私は彼の許嫁ということになっていた。
その通りなのだけれど、まさかそんなはっきりと彼が言うとは思わなかった。もっと他に言いようがあったように思うし、聡明な彼がそれに思い至らないことがあるだなんて信じられなかった。
「とはいえ、家同士が決めたものですが」
「そう、その通りで……、私の母とアリス様のお母様は仲が良く、小さいころからアリス様にはよく遊んでもらっていたので」
家同士と言うよりも母同士が決めたと言った方が正確だ。アスモデウス家はそういう人物がいてもおかしくない名家だけれども、私たちのそれは特に拘束力がある約束ではないのだ。仲の良い母親同士の冗談みたいなものだった。
幼い頃の私はそれを本気にして、「アリス様と結婚する!」などと言っていたのだけれど。それも、少なくとも彼の中ではもう昔のことになっているのだと思っていた。
「そ、そうなんだ」
「アズアズすごーい!」
それにどう答えたら良いのか分からなくて、彼らの言葉に曖昧に微笑んでみせる。アリス様の方がどんな表情をしているかは、見ることが出来なかった。
「すみません、入間様。私は彼女に少々用がありますので」
「あ、うん。いってらっしゃい」
アリス様が私に用事だなんて一体何だろう。彼の方から私に用事があるだなんて、珍しい。――そんなことを考えていたせいで反応が遅れてしまった。
「行くぞ」
そう言ってアリス様が私の肩に手を置く。
まさかそんな風に触れられるだなんて思ってもみなくて、突然のことに驚いて体が固まってしまった。
アリス様との距離も近い。
私が動けずにいると、彼はさらにぐいと強く引き寄せて歩くよう促すものだから、私はほとんどよろけるようにして足を前に出した。
「あの、失礼します!」
別れの挨拶の代わりに背中越しに会釈すると、ふたりはひらひらと元気良く手を振ってくれた。
彼らを置いてアリス様はどんどん廊下を歩いていってしまう。私の肩を半分抱くようにしたまま。
彼の手が置かれたままの肩がひどく熱い。
人通りのない廊下で良かったと心底思う。コツコツとふたり分の足音が響いていた。
「お、おさななじみではないのですね……」
「そう紹介する手もあったな」
私が尋ねると、彼はたった今気が付いたような表情をする。
許嫁だと思っているのは私だけだと思っていたのだ。母同士の約束など今となっては記憶の彼方のものであって、私の言葉など彼にとって思い出に過ぎないと思っていた。
それが、クラスメイトに私を許嫁だと紹介する程度には私へ心を傾けてくれているということなのだろうか。
少なくとも嫌がってはいないのだという事実が私の心をふわふわとさせた。
「いいなずけ、ですか」
あの言い方では入間さんとクララさんに少し誤解を与えてしまったのではないか。私の肩に添えられた手もそれを助長させてしまったように思う。
私の方はそれを嬉しく思ってしまうのだけれど、では、アリス様は?
「――どういう顔だ、それは」
顔を上げると、彼は眉根を寄せて少しだけ不機嫌そうにも見える表情でこちらを見下ろしていた。
「どういうとは一体……。私、どんな顔をしていますか?」
「どうって――ああ、もういい!」
彼は言葉を途中で途切れさせたあと、頭をガシガシと掻きむしった。アリス様らしくない様子に私が目を丸くさせていると、彼はそのままどんどん先へ歩いていってしまう。
「アリス様、私にお話があったのでは!?」
「あとで連絡する!」
振り返りもせずに、来た道を戻るでもなく、大股で歩く彼の背中はあっという間に小さくなっていく。
それを追いかけたいような気がしたけれど、伸ばした手は結局自分の頬へ当てた。
顔がひどくあつい。
一体今自分はどれほど間抜けな顔をしているのだろう。今さらドクドクと心臓が激しく鳴っているのが自覚出来る。
今度こそ、今の自分の表情を彼に見せられる気がしなかった。
2020.03.21