「送ってくださってありがとうございます。それじゃあ、また」
男性は振り返りつつ少しだけ帽子を上げて私の言葉に答えてみせる。一度は遠慮したものの結局協會まで送らせて迷惑を掛けてしまったのではと思っていたのだけれど、彼の口元はゆるく微笑んでいるようだったから心配のしすぎだったのかもしれない。
角を曲がって協會の扉を開ける。中に入るとビルの中は外よりもわずかにひんやりとしていた。パタリと後ろで扉の閉まる音がする。それと同時に廊下に人の姿があるのに気が付いた。影になっていたけれども、それが誰かすぐに分かった。
「あら、田崎さんお出掛けですか?」
もうほとんど日も暮れかけていたけれども、機関員の皆が夜に出掛けるのは珍しくも何ともない。『ああ、ちょっとね』などという答えが返ってきくるのだと思っていた。
「田崎さん?」
狭い協會の壁にトンと寄りかかって私の行先を塞ぐ。チカと廊下の電球が一度瞬く。
「――さっきの男は誰?」
咄嗟に彼の言葉の意味が理解出来なかった。少しだけ遅れて、先ほど協會の前まで送ってくれた人のことだと気が付いた。きっと彼は二階の窓からそれが見えたのだろう。
「中佐のおつかいに行った先の息子さんです。怪しい方ではありませんよ」
「そういうことを聞いているんじゃあないよ」
そう言って彼はふうと溜息を吐いてみせる。たまに、機関員に比べて頭の回転の遅い私はこうして的外れなことを言ってしまう。もちろん彼らと比べれば大抵の人間は頭の回転が遅いことになってしまうのだけれど、彼に嫌われたくない私は自分の愚鈍さに嫌気が差すときがある。
そうして私が自分の愚鈍さを呪っていると、ちらりと彼が伏せていた視線を上げる。ばっちり目が合うと、何だか彼の瞳に逃れ難い力があるような気がして、私はぐっと詰まってしまった。
「随分親しげな様だったけど」
「そうですか? 今日初めてお会いしたのですが……」
「そんな風にはとても見えなかったな」
他人の目からはそんな風に映っていたのだろうか。帰り道、あの男性と何を話したらいいのか正直分からなかったし、当たり障りのない今日の天気だとか近頃の暖かくなった気候の話しかしなかった。中佐が私に遣いをさせるくらいだからうっかり喋ってしまって困るような情報を私は持っていないのだろうし、そのような相手でもなかったのだろうと思うのだけれど、何だか緊張して上手く話せなかった。それでも相手は私に親切で、私が退屈しないような話題を選んで色々と会話を弾ませようとしてくれたのだけれど。
「どこへ出掛けて来たんだい?」
「……あの、どうしてそんなことを聞くんですか?」
「あの男に嫉妬しているからさ」
思わず尋ねれば、さらりといつもの涼しい顔のまま彼は言う。あまりにもそれが普段と変わらない声の調子だったから、きっといつもの戯れに違いないと思った。
――それに、何より、言っている内容が到底信じられるものではなかった。
「田崎さんのように何でも出来る人が嫉妬なんてするとは思えません」
「するさ」
嫉妬なんてものは、持たざる者が持つ感情だ。先ほどの男性よりも田崎さんは顔も整っているし、きっと力でも負けないだろうし、頭脳は比べるまでもなく田崎さんの方が何倍も切れるだろう。ただひとつでさえ田崎さんが劣っている部分なんて見つかりそうになかった。嘘や冗談を言うにしてももう少し分かりやすいものにしてくれればいいのに。
「だって、さっきの男は育ちが良くて誠実で優しそうで――きちんと君をしあわせに出来そうな男だった」
そう言って田崎さんがそっと私の右手を取る。
「俺が妬くのも道理だろう?」
彼の瞳をじっと見つめていると何だか吸い込まれてしまいそうだった。チカ、チカとまた電球が消えては点いてを繰り返す。
「そんなことを言うのなら――」
途中まで言いかけて、はたと気が付いて口を噤む。
その言葉に彼は少し目を見開いたあと、その目を細めた。
慌てて口を押さえたけれど既に遅い。開きかけた口の形から、私の表情から、それまでの私の思考を辿った跡から、きっと彼にはそのあとに続く言葉が簡単に分かってしまったに違いない。
「いいのかい?」
本当はもうとっくになっている。
2018.03.27