「随分部屋が華やかだな」
「華やかっていうか文字通り花が生けてあるけどね」

食堂のドアを開け、目に飛び込んできた花に神永は思わず呟いた。そのあとに続いて入ってきた甘利もこの部屋に置いてある三つの花瓶をそれぞれ順番に見やりながら言う。流しのそばにひとつ、中央の大きな丸テーブルにひとつ、窓際のテーブルにひとつ。挿してある花はどれも同じ、小さな白い花だ。

「素敵なお花でしょう」

昼時にぞろぞろと集まってきた機関員たちに、流しで洗い物をしていたが顔を上げて答える。視線をそばの花へ向け、にこにこと、誰が見ても嬉しそうな顔をしている。

「俺が贈ったんだ」

その声に機関員の視線が今度は田崎へ集まる。いつもの涼しい顔で答える彼は、彼女の視界に入るであろう位置に座っていた。彼だけは皆よりも前にここにいて、彼女とふたりお喋りに興じていたであろうことは聞かなくても機関員全員が瞬時に理解したが、そのあとの反応は三者三様だった。あからさまにため息を吐く者、何の反応も見せずにただ椅子に座る者、何か言いたそうに口を開けては結局何も言わず閉じる者、呆れたように肩をすくめてみせる者――しかしそれらを向けられた当の本人は全く意に介さない。いつものようににこにこと人当たりの良い青年の顔を貼り付けていた。

「今日は沢山いただいたので各部屋に少しずつ置いてみました!」

の声だけがこの部屋の中で唯一楽しそうに響く。今朝彼女はこの食堂だけでなく、他の部屋にも一輪挿しを飾ったのだという。それほど大きな花束を田崎が持ってきてくれたらしい。言われてみれば協會のあちこちに花が飾られていたと神永は記憶を掘り起こす。どうやら一輪挿しが足りなかったらしくコップに挿してあるものもあったが、その花のおかげでこの協會内の雰囲気が少しばかり明るくなったのは事実だった。

「そういえば最近食堂に毎日花が一輪あったけど」
「それも田崎さんが摘んできてくださったんですよ。田崎さんお花が好きなんですって」

波多野がこの頃全員が感じていた小さな疑問を口に出せば、がころころと鈴のなるような声で答える。何故田崎が花を持ってくるのか、その意味を些かも疑問に思っていないのは明白だった。素直に田崎は花が好きなのだと信じている。

「田崎、お前……」
「かわいいだろ?」

神永は田崎へ向かって憐れむような視線を送ったが、当の田崎はにこにこと笑顔のままだった。この男は花を愛でるような性格ではない。花を持つのなんて女に贈るときか、お得意の手品で使うときくらいなものだった。摘んできたなんて嘘八百。少なくとも今日の花束は花屋で購入してきたものだろう。

「そうですね。私としては昨日のが特にかわいらしいなと思いました」
「それじゃあまた持ってくるよ」
「ありがとうございます。またここに飾って皆さんに見てもらいましょうね」

かわいいと言った田崎の言葉にはずれた答えを返す。にこにこと至極楽しそうな顔をする彼女に田崎はやわらかい笑みを向けるのだった。

「田崎……」

思わず神永が二度目の憐れみの視線を送る。外ではどんな女でも簡単に落としてみせる彼が、彼女に対してはこんなかわいらしいおままごとのようなことをしているとは思ってもみなかった。いや、彼女を気に入っていることは気付いていたが、こんな落とし方をしているとは意外だったというべきか。普段の彼ならば、このような慎ましやかな花の束は決して女性に贈らないだろう。もっと、華やかで情熱的で、女性が夢見るようなものを渡すに違いない。けれどもに対しては小さな花、しかも普段は一輪ずつ渡しているというではないか。しかしそれも彼女の部屋ではなく、皆が集まる食堂に飾られているというのだから報われない。神永は田崎の地道な努力に涙が出る思いだった。

――もっとも、分かりやすく情熱的な花束を渡さないのは彼がこの状況を楽しんでいるためなので、本気で同情しているわけではないが。彼なら良く言えば純真、悪く言えばまだまだお子様な精神の彼女を翻弄し、落とすことなど容易いはずだ。

「ねえ、水をくれないかな」
「はい、ちょっと待ってくださいね」

彼女に話しかける田崎はいつもと変わらないように見える。田崎が何を考えているかなんて簡単に読めるわけがない。神永はそれ以上深く考えるのを止め、席に着こうとした瞬間、トンと何かがぶつかる音がした。見るとカウンターに積まれてあった本の山が崩れるところだった。どうやらがうっかり肘を当ててしまったらしい。本たちがバラバラと音を立てて床へ落ちていく。

「わっ」

が「あっ」と小さな声を上げ、駆け寄ってくる。散らばった本たちを拾い上げるために神永が身を屈めると、彼女もそれに並んだ。意外にもすぐそばに座っている田崎は手伝おうとはしなかった。座ったまま、頬杖をついて様子を眺めるだけだった。さぞかし彼女を甘やかしているのかと思いきやそうでもないらしい。――しかし協會の所有物である書物を誰がこんなところに無造作に置いたのかと訝しげれば、頁の間から何かがはみ出ているのに気が付いた。

「これは……?」

神永が問えばはぱっと淡く頬を染めながら、本を拾う手を止めた。そして、すぐそばにいる神永でさえ聞き取れるか取れないくらいの小さな声で答える。

「田崎さんがくださったお花をそのまま捨ててしまうのはもったいなくて……。それで押し花に……」

結局は彼女があの青年に絡め取られるのも時間の問題でしかないようだった。

2016.07.09