日の暮れた通りで、前から歩いてくる人影が見知った人物のものだと気が付いたのは、ほんの少しだけ私の方が早かった。

「あら、佐久間さん、こんなところでどうしたんですか?」

その人に先手を打つように話しかけると、丁度口を開いたところだった彼は言葉を飲み込む代わりにひどく渋い顔をしてみせた。その理由も、彼が思っていることも、何となく分かってしまって、私は曖昧な笑みを作るしかなかった。

「それはこちらの台詞だ。何故こんな時間に出歩いている」
「いつの間にかこんなに日が落ちるの早くなっていたんですねえ。うっかりしてました」

そう言って誤魔化せば、彼はさらに眉間に皺を寄せて険しい顔をした。全く誤魔化せていない。大方こんな時間に女性がひとりで出歩くなんてと思っているのだろう。

「暗くなってから女性がひとりで出歩くものではない」

私が予想した通りの言葉が彼の口から出る。

「大方、井戸端会議にでも夢中になっていて買い物が遅れたんだろう」
「……分かってるじゃないですか」

少し、恥ずかしい。他の奥様方は日が落ちる頃合いになって『あらイヤだ、もうこんな時間』と慌てながらも、最低限の家事は終わらせていたのだ。今日は機関員たちは訓練で夕食はいらないとのことで、少し油断していたのもある。そのあと今日中にと頼まれていた雑務や買い物などをしていたらすっかりこんな時間になってしまっていた。今日はいつもより自由な時間が多いぞと浮かれていたのかも知れない。

「送っていく」
「でも、佐久間さんはこれから参謀本部に戻るのでは? まさか協會へ行くところだったなんて言いませんよね?」
「お前だって分かっているじゃないか」

そう言って佐久間さんが笑う。先ほどの仕返しだろう。私と同じ言葉を返す佐久間さんは、少しだけ本来の彼を覗かせていた。適度に機関と距離を取っている彼の、こういう一面は私にとって貴重だった。

「だから『送っていく』と言っているんだ」
「参謀本部への報告が遅れてはまずいのでは?」
「生憎、今日はこのあと来るようにとの命令はない。ただ少し書類を取りに行くだけだから気にしなくていい」
「でも悪いです。協會まではこの通りをまっすぐ行くだけだからひとりでも大丈夫です」
「……本当に頑固だな」
「佐久間さんに言われたくありません」

言ってしまってから、後悔した。あまりにも失礼な口の利き方だった。きっと佐久間さんはむっとしただろう。私が頑固なのは本当のことななのだから。機関員にも何度からかわれたか知れない。

通りをまっすぐ行くだけとはいえ、協會が目と鼻の先というわけでもない。五分か十分か、それなりに歩く距離がある。彼からしてみれば心配して善意から申し出たことなのに、こんな小娘にこんな生意気なことを言われて、さすがの佐久間さんでも腹が立ったに違いない。

謝らせてもらえるか分からないが、謝らなくては。そう思いながらちらりと彼へ視線を上げると、佐久間さんは鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くさせていた。しかし、その瞳には怒気はなくて、ただぱちぱちと何度か瞬かせただけだった。

そうして、彼は唖然としている私をじっと見つめると、不意に大きく口を開いた。

「――そういえば、協會に忘れ物をしてしまった」

あからさまな棒読みだった。特別な訓練など受けていない私にだってこれは演技だと分かってしまう。佐久間さんは嘘が下手な人だ。

「俺も協會に戻らなくてはならなくなった」
「……何を忘れたと言うんです」
「それは……、機密事項だ」
「言えないんですね」

そこまで深く考えてはいなかったのだろう。それでも機密だと言ったのは上手い言い訳だと感心した。軍の機密だと言われれば、私はそれ以上踏み込むすべを持たないからだ。

「機密事項だからな」

そう言って頑なに私から視線を逸らす彼の瞳には、やさしい夜の色が映っていた。――ああもう、この人は私ひとりで帰らせる気など微塵もないのだ。

「……じゃあ、協會までご一緒させてください」
「ああ」

それだけ返して歩き出した彼の後を追いかける。嘘を指摘されるのを恐れてか、それとも照れからか、私の歩調よりも少しだけ速いそれに並ぶように両足を動かす。私が並んで歩いてみせれば、彼は私の方をちょっと見て表情をゆるめる。歩調が先ほどよりゆるやかになって、こういうところで佐久間さんは大人なんだなぁなんて思ったりするのだ。対照的に、先ほどの私の言葉のいかに子どもっぽいことか。

「佐久間さん、あの――」
「礼ならいらないぞ。俺は忘れ物を取りに戻るだけだからな」
「……いじわるですね。人が勇気を出して言おうとしたのに」
「俺の隣を歩きながら随分殊勝な顔をしているからつい、な。許せ」

こちらを見て笑う彼の瞳は、いつもより多く光を反射しているように思えて、私は慌てて前を向いたのだった。

2016.09.08