教室の窓から差し込む光が彼をオレンジ色に染めている。文庫本を読む彼の長いまつげがその頬に影を落としているのが見えた。チクタクと壁に掛けられた時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。
「――いつまで呆けているつもり?」
不意に彼の唇が動く。その声が自分に向けられたものだと一瞬遅れて気付いた。視線を上げると、いつの間にか文庫本のページを捲る手を止め、呆れたような目でじっとこちらを見つめる三好くんの顔があった。
「えっと、何を書いたらいいか分からなくて。こういうの苦手で……」
日直日誌の表紙を見せ、えへへと笑って誤魔化す。本当のことは言えない。ただ考え事をしていたらたまたま正面に三好くんの顔があっただけで、別に見ていたわけではないですよと言葉の裏に言い訳をする。
「へえ、高々日誌を書くのにこんなに時間が掛かる人は初めて見た」
それはそうだ。私は彼が帰らないのを良いことにわざと時間を引き延ばしているのだから。最初は三好くんも何か用事があってそれまで時間を潰しているのだと思った。
私が黒板の上の方を消すのに苦労していても、いつもよりぱんぱんになったゴミ袋を両手いっぱいに持っていても、我関せずと言わんばかりに彼は手伝うどころか、手元の文庫本から視線を上げることすらしなかった。
ゴミ捨てから帰ってきて、きっと彼はこの本をここで読み終えたいのだと思い当たった私は、残りの日誌を書くという仕事を出来る限り時間を掛けて行うことにしたのだ。運良く彼の正面になっている自分の席で、時折ちらちらと彼の方を見ながら。――読書に耽る彼のことばかり気になってそのうち日誌どころではなくなってしまったというのも事実だけれども。
「早く済ませないと日が暮れるよ」
三好くんはそう言うのだけど、まだ空の色は変わっていないし、最終下校時刻まではたっぷり時間がある。きっと先生も待っているはずだから早く日誌を書かなくてはいけないことは頭では分かっていた。でも、それよりも三好くんと一緒にいる時間がまだ残っているということの方が私にとってはずっと重要なことなのだ。
「うん」
小さく、なるべく何気なく聞こえるように答えたはずだったのに、しんと静かな教室にそれがやけに響いたような気がした。変に聞こえなかったかと内心ドキドキしていると、つと彼がほんの少しだけ視線を上げる。何かを言いたそうに彼の唇が薄く開く――
「やっべ、忘れ物!」
しかし、あと少しで彼が音を形作るというところで不意にガラリと大きな音がして、出かかっていた彼の言葉は途切れてしまった。私も反射的に彼から意識が逸れて音のした方を見ると、廊下からひょこりと顔を覗かせる神永くんの顔があった。
「と三好? まだ残ってたの?」
「私は日直の仕事がまだ終わらなくて」
「三好くんは――」と彼の方を示す。三好くんはいつの間にかすっかり読書に戻っていて、大きな物音にも神永くんの声にも一切顔を上げなかった。
「何、が日直の仕事終わるまで待っててあげてんの? やっさしーい」
「うるさい」
三好くんは神永くんの言葉をぴしゃりと跳ね除ける。こういう彼らのやり取りは別段珍しいものではない。珍しいものではないのに今回ばかりは神永くんの言葉に私は目を丸くさせてしまった。――三好くんが私を待っている?
「はいはい、邪魔者は退散しますよ」
そう言って彼は廊下側にある自分の席からノートを一冊取り出すとそれを軽く振って、言葉通りすぐに教室を出ていってしまった。まるで嵐のような人だ。
残ったのは変わらず文庫本を読み続ける三好くんと固まって動けずにいる私だけだった。ぺらりと三好くんがまたひとつページを捲る。先ほどまでよく聞こえていた時計の針の音は、私の心臓のどくどくという音ですっかりかき消されてしまった。
「そこ、漢字間違ってる」
トントンと彼のきれいな指が日誌を叩く。慌ててその指の差す箇所を見れば、確かにうっかり同音異義語を書き込んでいた。書き直そうと消しゴムを手に取ろうとしたのに慌てすぎたせいでうっかり手で弾いてしまう。ぽとりと小さな音を立ててそれが床に落ちる。その様子を見た三好くんが「はぁ」と溜め息を吐いた。
「どうせ読むのは佐久間先生だけだ」
こんなものは適当に済ませれば良い。そう言って彼は私が屈んで消しゴムを拾っている間に、机の上の日誌とシャーペンを手に取ってさらさらと書き込んでいく。彼はそのまま私に見せることなく、ぱたりとそれを閉じる。
「ほら、帰るよ」
そう言って彼がぽんと私の頭に日誌を乗せる。それを受け取って抱えると、三好くんが立ち上がってぺたんこの鞄を手に取る。
「読書はもういいの?」
しおりも挟まずに閉じられてしまった本を指差して尋ねる。さっきまであんなに熱心に読んでいたのに。すると三好くんは私の言葉にまた「はぁ」大きな溜め息を吐く。
「僕が好き好んでこんな西日の強い場所で読書するとでも?」
「じゃあなぜ?」と尋ねると彼は口元にきれいな弧を作って、「さあ?」と答える。彼の顔の半分が鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
2018.01.28