流しの水を止め、手の水を軽く払ってから手拭いで残りの水分を拭き取る。山になっていた食器たちはすべて綺麗に洗い上がり、大部分は元の食器棚へ、残りの数個だけが流しの横に重ねられ、戻してもらうのを待っていた。

「三好さん、決まりましたか?」
「何がです?」

彼はきょとんとした顔をして振り返る。その手には布巾と湯呑みがあって、彼は私が洗ったものをひとつずつきっちり拭いていた。

「この間手伝ってもらったお礼をすると言ったじゃないですか」
「ああ」

三好さんはさも今思い出したかのような顔をしたが、彼が忘れていたわけではないことを私は知っている。三好さんのような人並み外れた記憶力を持っている人が忘れるわけがない。

先日洗濯物を屋上まで運ぶのを三好さんが手伝ってくれた。そのお礼をさせてほしくて何度も先程と同じように『何がいいですか?』と聞いては『もう少し考えさせてください』とにっこり笑ってはぐらかされてしまっていた。

「もういい加減決めてください」

お礼をすると言っている間に今日も彼は私の洗い物を手伝ってくれている。手が空いているから、と。私がいくら大丈夫だと言っても、結局はこういうのも偽の経歴を演じる際の訓練になるからと丸め込まれてしまう。極め付けには『ひとりで黙々とやるより話し相手がいた方が楽しいでしょう』と図星を突かれて、私は反論する術を失ってしまうのだ。

「三好さん、そうやって考えるふりをして、決めるつもりないでしょう」

私がそう言えば彼は「そんなつもりはないんですが」と曖昧に笑ってみせた。

本当は三好さんがお礼なんか求めていないことは気が付いていた。そんなものがほしくて三好さんは私を助けてくれたわけではないのも知っている。けれども、それじゃあ私の気が収まらないのだ。同じように三好さんが困っているときに助けられたらそれが一番良いのだけれど、彼が何か困るようなことなど滅多に訪れないのだ。

「じゃあ一緒に」

私の様子をうかがうようにして三好さんが口を開く。その先の言葉を聞き逃すまいと身を乗り出す私に彼が小さく笑いを零す。

「一緒に街へ出掛けてくれませんか」

そう言って彼は布巾で拭いた最後の湯呑みを置いたのだった。

 ◇

彼に言われるがままによそ行きの服に着替えて協會を出る。一緒に出掛けるという彼の頼みの真意が分からないままに、歩き出す彼の後ろを追って隣に並んだ。

「三好さん、どこへ向かっているんですか」
「どことは決めてないんですが……。どこか行きたい場所はありますか?」
「三好さんが出掛けたいと言ったんじゃありませんか」

私が行きたい場所に行ったのではお礼の意味がなくなってしまう。それに、出掛けたいと言ったからには多少なりとも目的があったのではないか。どこに行くとも決めていないとは言ったが彼の足は自然と大きな通りの方へ向かっていた。

「何か買いたいものがあるんですか」
「これと言って特には」

そう言う割に隣を歩く彼は何だかとても楽しそうに見えた。百貨店など比較的華やかな店や建物が並ぶこの通りは三好さんもよく来るのだろうか。歩いていて私まで何だかわくわくした気分になってしまった。

「へえ、今はこういうのが流行っているんですね」

ここのところ、こうしてショーウインドウを眺めながらゆっくり歩く機会もなかったからつい目が行ってしまう。硝子の向こうはまるで別世界のものが置いてあるかと思えるほどキラキラして見えた。かわいらしいワンピース。それに合わせたいくつかの装飾品たち。

「何か――」

すぅっと吸い込まれるように、隣でショーウインドウを覗く彼と目が合う。一瞬、その瞳の奥に何かを躊躇うような昏い光が見えたような気がした。

「何か、買って差し上げましょうか」
「何言ってるんですか、今日は私が三好さんにお礼するんですよ。三好さんこそ欲しいものがあったら言ってください」

私がそう言うと三好さんはぱちぱちと目を瞬かせて、それから「はは」と笑いを零した。

彼は笑うと少し幼く見える。何が彼を笑わせたのかは分からなかったが、彼の瞳にもう先程の影は見えなくなっていた。「あなたらしいな」と三好さんが目を細める。

「欲しいもの……」

小さく呟いて、彼は少し遠くを見て考える素振りをみせる。私は緊張しながら彼の次の言葉を待った。

「困ったな、今は何も思い付かない」

そう言って三好さんは眉を下げて笑う。それは誤魔化しではないように私には思えた。

「全部持っているからかもしれません」

ともすると優秀な三好さんの嫌味な言葉にも取れるかもしれないそれは、ひどくやさしい声と表情で彼が言うものだから、私はぐっと言葉に詰まってしまった。彼が何を思い浮かべてそれを言ったのか分からない。分からないので、D機関での訓練の日々は彼に充実を与えているのだろうと思うことにした。そう思うことにしたのに、三好さんはその瞳でじっとこちらを見つめてくるものだから、私は無意味にそわそわと落ち着かない心地がした。

「でもそれじゃあお礼にならないじゃないですか」
「いいんです。いつも僕がもらってばかりなのだから」
「そうですか? 絶対私の方が三好さんに助けてもらっている気がするんですが」

夕飯の支度を手伝ってもらい、重たい洗濯物を運んでもらい、その他にも細かいことで三好さんは私に手を貸してくれる。彼はよく気が付く人で、私はそれに甘えてばかりいるのだ。だから、少しでも返したかったのに、彼はそれでいいと言うのだから私は一体どうしたら良いのか分からなくなってしまう。

「それじゃあ夕飯は何かおいしいものを食べて帰りましょう! 私がご馳走しますから」

こうなってはこれしか手段が思いつかなかった。これくらいならば三好さんも受け取ってくれるだろうと。

確か先日皆と雑談しているときに聞いたお勧めのお店がこの先にあったはず。女性にも人気だと聞いて私も一度行ってみたいと思っていた場所だ。そのとき三好さんも少し興味を持っていたようだからちょうど良いかもしれない。

私が一歩を踏み出すと、彼は目を伏せ、「本当にあなたらしい」とまた小さく言葉を落として私の隣に並んだのだった。

2016.10.29