グゥと盛大にお腹の虫が鳴った。

お昼ご飯が少なかったのかもしれないし、今日は午後に体育があったからエネルギーを使い果たしたのかもしれない。午後の時間のくせに今日の種目はバスケで、コートの中を散々走り回ったのだ。自分たちの試合が終わったあとは男子の応援で声を張り上げたのも余計にエネルギーを使ったのかもしれない。うちの学校はバスケ部がなかなか強いらしく、体育の授業とはいえ試合は大層盛り上がったのだ。そのせいでいつもよりお腹が空いたのかもしれない。

誰もいない放課後の廊下で良かったと思いながら鳴ったお腹を押さえる。かなりの音量だったので誰か近くにいたら鳴ったことを誤魔化せなかっただろう。ひとりだったとはいえ何となく恥ずかしく早くこの場を立ち去りたい――再び一歩を踏み出したそのときだった。

「ふふ」

上から微かな笑い声が降ってきた。慌てて振り返るとひとりの男子生徒が階段の途中に立っていた。踊り場の、大きめに取られた窓から差し込む光を背景に彼は口元に手をやってくすくすと笑っている。顔に見覚えはなかったが、着ている学ランのボタンは上まで閉められていて優等生然とした雰囲気を纏っている。彼は私と目が合うと、こほんと小さく咳払いをしてこちらに向き直った。

「失礼。でも、あまりにも自己主張の激しい腹の虫だったものだから」

そう言って彼はまた口元をゆるめた。笑う彼の上履きを見ると、自分と同じカラーだった。知り合いではないけれど同じ学年ではあるらしい。同学年ということで少し気が緩まった。

彼が顔を背けて何とか笑いを堪えようとしているのは分かるのだけれど、結局は唇から笑いが漏れているのだから同じことだ。男子にしては鈴の鳴るような上品な笑い声だったが、そこまで笑われると羞恥と、ほんの少しの怒りが湧いてくる。女子に対してそんな笑わなくたっていいじゃないか。男子はやっぱりデリカシーがないのだ。

ぷりぷりと怒りながらそのまま踵を返して今度こそ立ち去ろうとすると「待って」と彼が引き止める声が聞こえた。

「良かったらこれから調理室へ来ませんか?」

何を言ってるんだと、その言葉も無視してやろうかとも思ったのだけれど、初対面の人に対してひどいかと思ってやめた。先ほども一応は笑いを堪えようとしてくれたわけだし。振り返ると、笑いはもうどこかへ行ったのか彼の唇は綺麗な弧を描いていた。

「お腹空いてるんでしょう? 僕、料理部なんです。この時間なら丁度福本がパウンドケーキを焼き上げる頃だ」

自分が履いているものと同じ色の上履きが、一段一段降りてくる。そうして私の前に立つとやわらかく目を細めて、ぎゅっと私の右の手首を握った。

「こっちです」
「えっ、ちょっと……!」

調理室なら授業で使ったことがある場所くらい知っているのだけれど、彼は丁寧に私の手を引いて案内しようとする。しかしやわらかな口調とは相反して案外強い力で私の手首を握ってぐいぐい引く強引さに、私は口を挟む間もなかったのだった。



『調理室』とプレートに書かれた教室のドアを彼が開けると、ふわりと甘い香りが漂ってきてまたお腹が鳴ってしまいそうになった。

「三好、遅かったな」
「お客様を連れてきたよ」
「A組のさんか」
「お、おじゃまします……」

そこで初めて福本というのが男子の名前だということを知った。料理部というから女の子ばかりの部活だと思っていた。よく考えれば料理部に入っているという子の話は聞いたことがない。それどころか料理部という部活があるということすら知らなかった。調理室にはその福本くんしかおらず、他の人影は見当たらなかった。

「ナイスタイミングだな。丁度焼き上がって切り分けようとしていたところだ。良かったらさんも食べて行ってくれ」
「でも急に来て、部員でもないのに」
「料理部は部員が三人だけなんです。いつも余った分を持ち帰るくらいなので遠慮しないでください」

道理で料理部の存在を知らないはずだ。部としてギリギリ三人で存続しているような部活のようだ。友達は所属していないし、噂を聞いたことがなくても当然だった。

「三人?」
「ああ、僕らと同じくD組の神永というやつもいるんですが……」
「さっき野暮用だと行って出て行ったぞ。すぐ戻るから作ったものはとっといてくれと言われた」
「大方、女のところでしょう。神永の分だけ別の皿に取り分けて、僕たちは先に頂きましょうか」

どうやら料理部はD組の生徒のみで構成されているらしかった。D組の生徒は全員男子だと記憶していたから、この学校の料理部は珍しくも男子生徒のみで活動しているということになる。神永という人も気になったが、ふたりは部活動中にいなくなった彼を咎めるわけでもなく、あまり気にしていないようだった。

「どうぞ座って」

彼が調理室の丸椅子を引いて勧めてくれる。雰囲気に流され、勧められるがままに座ると彼はにっこりと微笑んでパウンドケーキを目の前に置いてくれた。福本くんが自分の分と彼の分のお皿を並べた。

「福本の作る料理は絶品です。僕が保証します」

誇らしげに彼が言う。「今日のはなかなか上手く焼けた」と福本くんも自信気な声で言う。出来立てのパウンドケーキは彼らの言う通りおいしそうな匂いで、見た目もかわいらしく盛り付けられていた。

「紅茶も、良かったらどうぞ」
「ありがとう、えっと……三好、くん?」
「ええ、さん」

先ほど福本くんからそのように呼ばれていたはずだと記憶を辿って呼んでみると彼はやわらかく微笑んで答えた。調理室に入ったときに福本くんも私の名前を知っているようだったが、それは三好くんも同じらしい。

この学年だけ四クラスあるせいか、AからCまでクラスとD組は教室が少し離れている。おかげで普段あまり顔を合わせる機会がなく私は彼らのことを知らなかったのだけれど、彼らにはそれは関係ないようだった。頭が良いとの噂で、何となく謎に包まれているD組の人らしいなぁと思いながら目の前の紅茶を口に運ぶ。

「わっ、おいしい! パウンドケーキも!」
「それは良かった」

お誘いした甲斐がありました、と三好くんがくすくすと控えめに笑う声が聞こえる。顔を上げると、向かいで三好くんがパウンドケーキをフォークで丁寧切り分け口に運んでいた。がっつきすぎたかと反省しながらもついつい次の一口、また次の一口と手を動かしてしまう。福本くんの作ったパウンドケーキは甘さが丁度良く、ドライフルーツが混じっているものもあって、いくらでも食べれてしまいそうなほどおいしかった。紅茶もそれに合うように淹れられていて、素晴らしいティータイムだ。

「もし気に入ったのならまた来てください」

こんなにおいしいおやつが食べられるなんて放課後の調理室は天国だ。私は口に入れたパウンドケーキの甘さを噛み締めながら、こくこくと首を何度も縦に振ったのだった。

2016.09.17