午後、D課へ行くと佐久間係長の机の上に旅行ガイドブックが乗っているのが目に付いた。表紙に海の写真が大きく載って、有名なビーチの名前がいくつも並んでいる。佐久間さんがこんなものをこんなところに置いておくなんて意外だと思ったが、夏休みも近いしあの佐久間さんだって海に行くことぐらいあるだろう。そう思って一度は気にしないよう努めたが、でもやっぱり彼が私物をこんな風に置いておくのは不自然だった。
「佐久間係長、頼まれていた資料お持ちしました」
「朝から悪いな。助かるよ」
そこに置いておいてくれとの言葉通りに資料を置くと、ふと他のデスクにも佐久間さんと同じように旅行ガイドブックや夏の海特集の雑誌が置かれていることに気が付いた。佐久間さんの机には一冊だったが、二冊三冊置かれている机もある。さらに周りを見渡せば海のイベントのポスターやら水難事故防止のポスターなどが壁に何枚も貼られていた。
「海に行かれるんですか?」
聞いてしまってから、もしかしてこれは捜査の資料だったのではと思い当たる。普通こんな課員全員の机に旅行ガイドブックが置いてあることなんて、いくらあのD課といえどおかしい。全員が揃いも揃って夏の海に思いを馳せているなんてことあるだろうか。しかもあの真面目な佐久間さんまでもが、だ。余計なことを口に出してしまったと思わず顔をしかめた私を見て、彼は安心しろと言うように表情をゆるませた。
「ああ、これか。神永の仕業だ」
普通じゃないのがこのD課だった。片付けても片付けてもいつの間にかまた置かれているんだと答える佐久間さんの顔は少し疲れているようにも見えた。あの人たちがやることだ、きっと徹底しているのだろう。名前を出されて神永さんが席を立ってこちらに歩いてくるのが視界の端に見えた。佐久間さんが余計なやつを呼び寄せてしまったとまた渋い顔をする。私はそれに苦笑しながらも、今度は壁を指差して尋ねる。
「ポスターは?」
「それは田崎だ。もらってきたんだと。こっちは一応地域のポスターだから無理に剥がせとも言えん」
ちらりと田崎さんの席へ視線を向けて言う。そのデスクは今は空だったが、いつもはそこから無言の圧力を掛けられているのだろう。「ほら、佐久間さん」とこちらまでやってきた神永さんが少し語尾を伸ばした口調で会話に入ってくる。まるで私がこちらの味方だと言うように私の肩にポンと手を乗せた。
「田崎も楽しみにしてるんですよぉ。行かないなんてナシでしょ」
そう言って神永さんは新しい雑誌を佐久間さんの机に積んだ。そんなに色んな雑誌を集めたところで内容はさして変わり映えしないだろうに。佐久間さんはそれらをどう扱うのだろうか。渡されたものは丁寧に目を通しそうな気がするし、全てそのまま机の中にしまい込んでいそうな気もする。
「海に連れてけとうるさいんだ。子どもじゃないんだから勝手に行けばいいと言っているんだが」
「それじゃあ意味がないんですよ」
「上司である俺がいたら羽を伸ばせないだろう」
「いやだなぁ、皆で行くから楽しいんですって」
佐久間さんの言うことももっともだし、神永さんの言い分も一理ある。しかしこの分では佐久間さんが折れるのは時間の問題のようにも思えた。わざわざ雑誌を置いたりポスターを貼ったり手が込んでいる。次に彼らがどんな作戦に出るかは想像も付かないが、きっとさらなるプレッシャーを佐久間さんに掛けるつもりに違いない。私は心の中で佐久間さんに同情した。
「ねえねえちゃんも一緒に行かない? 海、きっと楽しーよ」
完全に他人事だと思っていたので急に会話がこちらに飛んできてびっくりした。壁に貼られた綺麗な青のポスターが私を誘う。室内はエアコンが効いているとはいえ、窓の外へ目を向ければ午後の一番強烈な日差しと、あの独特のむわっとした湿気が思い起こされる。写真のような広い海に飛び込むのはひどく魅力的に思えた。夏なんだから夏らしいことをしなきゃと雑誌の文字たちも訴えてくる。
「嬉しいですけど、でも課の皆さんで行くイベントじゃないんですか?」
「そこまでちゃんとした催し物じゃないから大丈夫。それにちゃんには協力してほしいことがあって……」
神永さんたちから頼まれ事なんて私で務まるだろうかと思わず身構える。雑用程度だったらいいのだけれど。そんな私の不安を見抜いたかのように、神永さんはすぐ横で軽く笑顔を作ってみせる。
「佐久間さんの他にもう一人、行かないって言ってきかないやつがいてねぇ」
そう言う神永さんの視線の先をたどると丁度視線を上げた三好さんと目が合った。席で資料を読んでいたのか、その手には重たそうなファイルがあった。
「なんで僕が海なんかに行かなきゃならないんだ」
「あの小田切だって行くって言ってくれたのに」
「半分脅してだろ」
ふうとため息を吐いて三好さんは手元のファイルを閉じる。海に行きたい神永さんたちがどんな手段を使ったのか気になったが課内に小田切さんの姿は見えなかった。
「佐久間さんの他、最初行かないと言ってた三人のうち小田切と実井は説得済み。残りは三好だけなんだ」
せっかく二人説得したのなら全員でということなのだろう。佐久間さんは人がいいから最後にお願いすれば折れてくれるだろう。問題は一人だけ――三好さんさえ落としてしまえばあとはどうとでもなる。しかし彼はそう簡単にはいかないように見えた。
「暑いし騒がしいし、第一この面子で行くメリットが感じられない」
「最初同じこと言ってた実井は一緒に行くって言ってくれたぞ」
「買収されただけだろ。それに神永、お前は海で女性を引っ掛けるのが目的だろ。そんな下らないことに付き合わされたくないね」
そのように本人に言われれば三好さんに夏の日本の砂浜はあまり似合いそうにない気がした。プライベートビーチだとか南の島でバカンスを過ごす姿はイメージ出来そうな気がしたが、海の家なんかが立ち並ぶ人の多い海に三好さんが繰り出す姿は想像しづらい。神永さんは海でのナンパが目的のようだけれど三好さんはそれも興味がないようだし、本人の言い分ももっともに思えた。他の面子も全員がナンパ目的というわけでもないだろうが。
「そういえばちゃん水着は新しく買う?」
「そうですね、行くなら今年は新しいの買いたいです」
「じゃあ水着着るんだ?」
「新しい水着用意して海に行ったのにそれを着ないのもおかしな話だと思いますけど……」
私がそう答えると神永さんは期待していた答えを得られたのか、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「だってさ、三好!」
「……何が言いたい」
「こりゃ行かない手はないでしょ」
「……」
「沈黙は肯定とみなす」
「行かないって言ってるだろ」
神永さんの押しもかなり強いが三好さんもなかなか折れない。これだけ熱心に誘われれば了承するか、もしくはこれだけ断られれば諦めるかのどっちかだろうに、未だに拮抗して結論が出ないのはさすがD課と言ったところか。改めてこれをまとめ上げている佐久間係長を尊敬する。
「さんも、こんな誘いには乗らない方がいいですよ」
不意に三好さんから声を掛けられてびっくりする。座った三好さんがじっとこちらを見上げていて、何だか落ち着かない気持ちになる。そわそわと目を逸らすと乗せられたままだった神永さんの手が肩をポンポンと叩いた。
「三好は絶対海に行くことになるよ」
「何だ、それは」
「ん? 予言」
神永さんが至極楽しそうに言うのとは対照的に三好さんは眉根を寄せてひどく不機嫌そうな表情をしてみせたのだった。
2016.08.16