「待って」と小さな声がして私は思わず振り返った。今までこれほど小さく震えるような彼の声を聞いたことがなかったからだ。この生徒会室には私と彼のふたりしかおらず、声の主は決っているのに、思わず他に誰かいたのかと疑ってしまうほどだった。

「待ってください」

もう一度聞こえた声はいつもと同じ三好くんの声だった。振り返った先に立っていた三好くんもいつもの三好くんだ。姿勢良く伸びた背筋も、まっすぐに私の目を見て話すところも。

先輩」

三好くんは生徒会の二年書記だ。とても優秀な後輩で、彼が取った議事録は要点をしっかり簡潔にまとめてあって分かりやすい。それ以外の生徒会の細々とした雑用とも呼べる仕事も、こちらがお願いする前に彼が気が付いて済ませておいてくれることも多い。仕事は早く丁寧。私の、生徒会副会長としての仕事をさり気なくフォローしてくれたことも一度や二度ではない。

今日も、私が引き受けた資料作成の仕事を彼は手伝ってくれていた。過去の参考資料を探してきてくれたり、作ったものを見てアドバイスをくれたり。それらは全て的確で私ひとりでやるよりもずっと早く資料は完成した。けれどもいくら早く出来たといっても、帰り支度が終わった頃にはさすがに夏の陽はすっかり傾き、 生徒会室には眩しいほどの夕日が差し込んでいた。教室の真ん中はオレンジ色の光でいっぱいになっているのに対して、私たちの立っている扉の近くは、教室の電気が点いていないせいで妙に薄暗かった。

「どうしたの?」

鞄を肩に掛け直しながら尋ねる。こんな風に歯切れの悪い三好くんを見るのは初めてだ。いつも彼の口からは流れるように言葉が出て、それが必要なことならば発言に躊躇することはない。それなのに、私の言葉に答えず黙ったままの今日の三好くんはどこかおかしい。もしかして具合が悪いのではと、彼の肩に手を掛けようとしたところで彼が口を開いたものだから、私の右手は中途半端に空中に浮いたままになった。

「すきです」

そう言った三好くんは珍しく視線を俯かせていた。

「あなたのことが好きです」

二度目はまっすぐ私の目を見て。真剣な声色と瞳で、これがからかいや嘘ではないことがはっきりと分かった。そもそも三好くんは私にこんな冗談を言うような子ではない。ぐるりと、脳みそがかき混ぜられるような感覚がした。

「ちょっと待って、三好くん……あの、私……」
「知っています」

途切れ途切れに言葉を発する私を三好くんはやさしい声で制した。

「あなたがこのあとどう答えるつもりなのかちゃんと知っています」

少し眉を下げて自嘲的な笑みを張り付ける彼の表情で、私がこれ以上何も言わなくとも彼が答えをおそらく正確に悟っていることが分かった。

三好くんは頭も良くて気も利く完璧な男の子だ。だから、きっと私の知らないところでクラスの女の子に想いを寄せられたり、寄せたりしているのだと勝手に思っていた。それがまさか自分だなんて夢にも思わなかったし、まったくこれっぽっちも考えたことがなかったのだ。そういうのに彼と自分を結びつけて考えようという発想自体がなかった。それはもう申し訳ないくらいに。

「いいんです。今答えがほしいなんて言いませんから」

そう言って彼は一歩下がる。そこは夕日が差す場所で、三好くんの制服がオレンジ色に染まる。彼の髪の毛は光を受けて、きらきらと透けて見えた。夕日の眩しさからか三好くんは少しだけ眉を寄せ、なんだか泣き出しそうにも見える表情で、群青色を連れてくる光の中ひどく揺らいだ存在のように私の目には映った。

「全く僕の気持ちなんて気が付いてなかったでしょう。今日も下心があってあなたの手伝いを申し出たなんて」

確かに彼から直接言われなければこのままずっと気が付かなかったかもしれない。私を手伝ってくれるのは彼が優秀で気が利くからだと思っていた。“仕事が出来る後輩”だから手伝ってくれるのだと。もしかしたら私は三好くんをその型に押し込めていたのかもしれない。

「……気付いてなかった」
「はは、ひどい人だなぁ」

軽く言う彼の声色にはまったく私を恨むような色はなかった。笑う三好くんの表情はいつもと変わらないものに戻っていて、私はそれにどこか安堵した。さっきまでがあまりにも私の知らない三好くん過ぎたのだ。

「これでも僕、精一杯あなたの気を引こうとしていたんですよ?」

あの三好くんが片思いをしているなんて、この学校中の誰もが信じないだろう。誰からもどこからもそんな噂話は聞いたことがないし、流れてくるのは誰それも三好くんに想いを寄せているらしいという逆の話ばかりだったからだ。

「……どうして、言ってくれたの?」

私の言葉に三好くんが目を丸くさせる。自分は応えられないくせにこれを尋ねるのは無神経かとも思ったが、どうしても気になってしまった。答えが分かっていたのにどうして言ったのか。強烈に差していたオレンジ色は少しの間に弱まって幾分か優しい色になり、窓の上の方からはもう濃い藍色が少しずつ下りてきていた。

「深い意味なんてないんです」

外からは運動部の声が窓ガラス越しに小さく聞こえる。それなのに、彼が一呼吸置いてもう一度口を開くとピタリとそれらは止んで、三好くんの言葉だけがじわじわと私の耳から、脳みそへ、そして全身へと染み渡っていくようだった。

「あなたに僕の気持ちを知っていてほしかった。ただそれだけですよ」

2016.07.24