「三好さん!」

仕事が終わり、ビルから出たところに見知った姿を見つけて、びっくりしながらも駆け寄る。私の声に彼は顔を上げて、ゆるく口元に笑みを作った。

「どうしたんですか?」
「急に君の顔が見たくなって。いけませんか?」

いけないなんて言うわけがない。私の方が三好さんに会いたいと思っていたくらいなのに。

「でも、こんなところで待っていなくったって。仕事終わるのこんなに遅くなっちゃったし、連絡くれればもっと……」
「待ちたい気分だったんです」

そう言って彼はいつものように綺麗に微笑んでみせた。私は未だそれを向けられることに慣れなくて、どぎまぎしてしまう。それまでの暗い気持ちはどこかへ飛んでいってしまって、ただひたひたと足元から順にあたたかいものが私の中に満ちていくようだった。

「……私も、三好さんに会えてうれしいです」

するりと自然な動作で手を取られ、指が絡まる。少し前まで遠くから見るだけだった彼が私の隣で手を繋いで歩いているなんて、未だに信じられない思いがする。三好さんが私に会いに来てくれることも、それを素直に嬉しいと伝えられることも。

二週間前に三好さんと付き合えることになったときはそれこそ夢じゃないかと疑った。先週末に初めてデートをして、今日もこうして会いに来てくれて、隣を歩いていると現実のことなのだという実感が少しずつ湧いてくる。

心地良い夜風が頬を撫でる。少し前まで夜は冷え込んだが、もうすっかり暖かくなった。三好さんを寒い中待たせることにならなくて良かったと心底思う。通りの並木はすっかり緑を濃くして、淡く月明かりに照らされている。時折吹く風にかさかさと小さな音を鳴らすのがなんだか耳に心地良かった。

三好さんは今どんなことを考えているのだろうか――軽い気持ちでそっと盗み見た彼の横顔が何だかいつもと違って見えて私はびっくりした。

そんなはずはないのに何だか彼が泣き出しそうに見えてしまったのだ。多分、彼の後ろに見える月が、幻想的で、淡い光に当たる彼が儚げに見えたのだろう。何かに堪えているようにも思えた。しかしそう感じたのも一瞬で、一度瞬きをすればもういつも通りの彼の横顔があるばかりだった。彼が今何を考えているのかは分からない。私の見間違い、勘違いかもしれないけれど、そんな風に感じる彼の表情は初めて見たものだからきゅうと胸が締め付けられるような心地がした。そうしたら、居ても立っても居られなくなった。

するりと私が手を解くと、三好さんが不審げな顔で振り向いた。強く半歩踏む込んで彼の正面に立って、まっすぐ彼の双眸を仰ぎ見る。

「三好さん、私三好さんのこと絶対しあわせにしてみせますから……!」

ぎゅうぎゅうと彼の手を強く握って言う。彼の手のひらは私の体温が移って、いつもよりあたたかくなっていた。もっともっと移ってしまえばいいと思った。

「今日は三好さんが迎えに来てくれましたけど、次は私が三好さんを迎えに行きます。食べたいものがあればお店調べますし、私で作れるものであれば作ってきます! 他にも行きたい場所があれば連れてきます!」
「なんですか、急に」

彼の少し戸惑うような声にハッと我に返る。何を言っているんだ私は。でもあの瞬間は、まるで熱に浮かされたかのように彼に伝えなくてはと思ったのだ。三好さんにあんな顔はしてほしくない。ただのそれしか考えられなくなった。私の気持ちは、言葉を尽くしても伝えきらないような気がするのに、それでも、少しでも彼に分かってもらわなくてはと思った。冷静になればこんな道端で何を言っているのかと恥ずかしくなった。くすくすと彼の笑う声が落ちてくる。

「まるでプロポーズですね」
「そ、そういうつもりじゃあ……」

指摘されて初めて求婚まがいのことを口にしていたことに気が付く。しあわせするなんて、確かにプロポーズのそれだ。

「じゃあどういうつもりだったんです? 僕をしあわせにしてくれるというのは嘘なんですか?」
「嘘じゃないです! 嘘なんかで言いません!」

それだけは本当なのだ。私にとってそれは真実なのだということだけは分かってほしかった。彼の試すような瞳をまっすぐに見つめ返す。少しでも伝わってほしい、そう思ったのだけれど、彼は不意に視線を逸らした。

「やっぱり聞かなかったことにします」

ズキリ。その言葉に心臓に棘を突き立てられたような感覚がした。

考えてはみれば当たり前だ。まだ付き合い始めたばかりだというのに突然プロポーズまがいのことを言ってきて、重い女だと思われたに違いない。彼にしてみれば当然まだそんな結婚なんて考えてはいなかっただろう。決して、彼に想いを背負わせるつもりはなかったのだけれど、迷惑だと思われてしまっただろうか。「そ、そうですよね……」と小さく掠れるような声で言うのが精一杯だった。

「だって、少しせっかちじゃあないですか?」

彼の声が静かに響く。

「僕が近い未来に言う言葉をあなたから先に言われては困ります」

パッと顔を上げると彼のひどくやさしい瞳が私をのぞき込む。彼の言葉を理解するまで少しだけ時間が掛かった。さぁと柔らかい風が私たちの間を通り抜けていった。

「明日だって明後日だって僕が君を迎えに行きたいし、君がおいしいものを食べて顔を綻ばせるのをずっと見ていたいし、君とならどこへでも行きたいと思った」

じわじわと彼の言葉が私の中へ染み込んでいく。先ほどまで私がぎゅうぎゅうと握っていた手をやさしく解かれ、今度は逆に彼の手に包み込まれる。「君は――」と三好さんが口を開く。私はその言葉を一欠片たりとも逃すまいと自分の持てる限りの集中力で神経を彼に傾ける。

「今日落ち込んでいたのは君の方だろうに」

その言葉にドキリとする。

「建物から出てきたときの君は明らかに気落ちして疲れた顔をしていた。それくらい、分かる」

私の方が先に彼を見つけたと思っていたのに、しっかり見られていたらしい。ビルを出てすぐに気付いたから見られていないと思っていた。そんなひどい表情を彼に見られていたなんて恥ずかしい。今日は昼間に少し失敗をしてしまって、上司に怒られて、そのために残業していた。

「三好さんが来てくれたからそんなのどっかにいっちゃいました」

でもそんなものはもうどうでもいい、些細なことになってしまったのだ。

「私、三好さんが落ち込んでるときは飛んでいきますから! そもそも三好さんは私と同じようなヘマなんてしないだろうし、三好さんには必要ないかもしれませんけど、それでも私行きますから……!」

「だから――」と続けたその先は言葉にならなかった。ふわりと三好さんの前髪が私の頬を掠めた。それは唇に一瞬だけ触れて離れていく。あまりにも軽く短いそれは夢かとも思ったけれど、思わず手を口元へ持って行くと確かに触れられたあとがあった。

「み、三好さん……こんなところで……」
「僕もこんなところでするつもりはなかったんだけどな」

少しバツの悪そうな声。彼が今どんな表情をしているのか気になったけれども、自分の頬にも熱が集まってとてもじゃないがまともに三好さんの顔を見れそうになかった。視線を下げると、彼に握られたままの手があった。それを見ているとまたさっきとは少し違った気持ちがじわじわと溢れ出てきて、それは指先から伝わって脳みそを痺れさせた。

「私、健やかなるときも病めるときも三好さんのことしあわせにするって誓います!」
「だから気が早いですよ」

「まぁ少し文言が違いますけど」と付け足して三好さんは笑った。それが親しみを込めたものだと分かったから、今度は心がくすぐられる心地がした。

「誓いの言葉は本番までとっておいてください」

いつの間にか月はキラキラと明るく光って見えて、彼のくすくすと笑う声がやわらかく耳に届いた。

2016.07.17