多分、浮かれていたのだ。

三好くんと偶然廊下で出くわして、目的地にたどり着くまではお喋りが出来る、好きな人とふたりきりでいられる、そう考えるとふわふわと浮き足立つ気分だった。そうして、本当に注意散漫になっていたのだろう。「危ない!」と三好くんの鋭い声が聞こえたのに一瞬遅れて、ガンという衝撃がやってきた。

「痛っ!」

額に痛みを感じた瞬間は何が起こったか分からなかった。「あっ、悪ぃ!」と言う声が前方から聞こえてきたが、反射的に目を閉じてしまっていたから、それが誰から発せられたものなのかは分からなかった。額がズキズキと鈍い痛みを持つ。思わずその箇所を押さえてしゃがみ込んだ。

「大丈夫か……?」

隣から三好くんの声が聞こえる。その心配するような声色からやっと自分が何かにぶつかったのだと思考が追いつく。人の体にしては固すぎたから、きっと先ほど謝った声の主が持っていた何かが額に直撃したのだろう。何かの正体が見当もつかないのがさらに痛みを増長させているような気がする。隣で一部始終を見ていた三好くんならば知っているのかもしれないが、聞くのも少し怖かった。

「血出てるかも……少なくとも絶対たんこぶになってる……」
「そんな大怪我するような当たり方じゃなかっただろう」

三好くんが呆れたような声を出す。まぁ、少し自分でも大げさだとは思っている。しかしこうでも言ってみせなければ痛みと、びっくりしたのとでうっかり涙が出てしまいそうだったのだ。

「……ほら、見せて」

はぁという溜め息と同時に私の手首が掴まれて、覆っていた額から離される。急に視界が開けて、目の前のものにピントが合わなくなる。そっと壊れ物に触るようなやさしい手つきで私の前髪が分けられる。

「少しだけ赤くなってるな」

彼の前髪が私の額にはらりと掛かった。視線を少しだけ上げると彼の瞳の奥の色まではっきりと見えた。はっきりと像を映しているのに、それが脳に結びつかない。不意に彼の視線が私の額から離れて、私の視線と絡まる。ともすれば彼の吐息すら感じられる距離だということにここにきてやっと気が付くと、途端に心臓がうるさく鳴り始める。ぐるぐると頭の中で無意味な言葉ばかりが回る感覚。「い……」何がなんだか分からないうちに私は彼の肩をドンと強く押し戻していた。

「いやらしい!」
「いや……っ?!」

私の声は予想外に廊下中に響いた。





「よお、いやらしい三好」
「波多野ダメですよ、いくら本当のことだからといって人が気にしていることを言っては」
「おい」

喋りながら教室へ入ってきた波多野くんと実井くんに対し、三好くんが短くツッコミを入れる。ツッコミというにはそれは平素の彼の声色よりもずっと低く、随分と分かりやすく怒気が含まれていた。

「僕は悪くない」
「本当にそう言い切れますか? 女の子にあんなに顔を近付けてまったく、一切、下心がなかったと?」
「彼女が俯いていたから傷の様子を見てやるためにはああするしかなかったんだ」
「では、さんには女の子としての魅力を一切感じないというわけですね。かわいそうにさん、どうか気を落とさないでくださいね」

実井くんは三好くんを煽るついでに私まで切りつけるのはやめてほしい。しかし、私が彼をどうこう出来るとは思えないので黙って俯いておく。さらに言えば、彼らが来る前に三好くんからかの件は何をどう言われても絶対に反応するなと釘を刺されていた。

とはいえ、反論しないからといって無関心なわけでも、ましてや傷付かないわけでもなく。本人の言うように三好くんには下心などあるはずがないのだ。どちらかといえばそういうものを持ち合わせているのは私の方で、きっと本来ならばなんてラッキーだと喜んでいたような場面なのだ。いつも三好くん三好くんと彼の名前を呼んではうろちょろしている人間にとっては、またとないチャンス、またとない幸運だった。

それなのにラッキーもイレギュラーに落ちてくれば動転してあんな態度をとってしまうのだから彼に嫌われたとしても仕方がなかった。もっと赤くなって固まるだとか少し身を引くだとかもう少し女の子らしい反応は出来なかったのかと後悔する。せめて手を払うとかだったとしてもまだマシだった。相手を勢いよく突き飛ばしてあろうことか『いやらしい』などと叫ぶなんて。こちらの一方的な片思いだとしてもそれが好きな人に対する態度か。

「ほら、さんが落ち込んでしまいましたよ?」
「その手には乗らないからな」
「おや、今回はしぶといですね。残念です」

三好くんが実井くんを睨みつけたが、全く彼には効いていないようだった。こうして皆からからかいの的にされているのだからいよいよ愛想を尽かされてもおかしくない。

「……波多野くん、なんか言って」
「お前、馬鹿だろ」
「まったく仰る通りで……」

優しく慰めてもらえるとは思っていなかったけれど、こうもはっきりと言われると追い打ちをかけられたような気分にもなるわけで。多分それを言えば他のやつを当たれと言われてしまうだろう。かと言って、優しくされたいわけでもないのだから厄介だ。

「……三好くんに嫌われちゃったかも」
「お前本当に変なところで自分に自信ないのな。いつも散々三好のあとついて回ってるくせに」

波多野くんの言う通りすぎて何も返す言葉がなかった。ぐずぐずとソファの上に足を乗せて膝に顔を埋めるとすかさず三好くんから「スカートの中、見える」とたしなめる声が飛んでくる。すぐに足は下ろした。

「おっ、いやらしい三好、こんなところにいたのか」
「二度目は面白くないよ」

ガラリと開くドアの音とのん気な声とともに入ってきた神永くんに三好くんは随分と余裕を取り戻した様子で返す。神永くんはそんな彼の言葉など聞こえなかったような顔で、教科書など何も入ってなさそうな薄っぺらい鞄をぽんとソファの私の座っている隣に投げ置いた。

「ダメだろ、もっと女性は丁寧に扱わないと」
「僕がそうしなかったとでも?」
「違うのか?」

しばらく神永くんと三好くんは睨み合っていたが、先に視線をそらしたのは三好くんの方だった。

「……相手にするだけ馬鹿らしい」

そう言うと三好くんは手にしていたファイルを棚に戻した。さらには机の上に出してあったペンをしまう。その様子を見て私は反射的に「あっ」と小さい声を上げて一瞬腰を浮かせてしまった。本当に小さい声で、すぐに口をつぐんだから多分すぐ隣にいた波多野くんくらいにしか聞こえなかったとは思う。

「もう帰るのか?」
「少し過去の資料を確認して書類を提出するだけだったからな」

三好くんは問いにさらりと答えて置いてあった鞄を手に取る。多分これ以上人が増えてさらにからかわれるのを避けるためだろう。習慣とは恐ろしいもので、あんなことがあったくせに彼が帰る素振りを見せれば後をついていこうと立ち上がりかけるし、何とかそれを抑えつけたのに心はもう三好くん帰っちゃうのかぁ残念だなぁなんて思う。彼の姿をこっそり目で追っていると、ふと彼の手に何故か私の鞄も一緒にあることに気が付いた。

「ほら、帰るよ」

手を取られ引き上げられたかと思うと、すっと腰に彼の手が回される。まるでテレビの中だけで見るような非現実的なエスコートに私の脳みそはまた簡単に機能を停止する。見上げるとまた普段からは考えられないほど近くに三好くんの顔があった。再びぐるぐると頭が沸騰するかのような感覚に陥る。何が起きているか理解出来ないでいるうちに、腰に回された彼の腕に力がこもり、さらにぐっと体が彼の方へ引き寄せられた。


一瞬遅れて「ぎゃー!」という私の色気も何もあったもんじゃない叫び声が辺り一面に響き渡ったのは言うまでもない。

2016.07.13