一瞬、くらりと、視界が歪んだ。

なんとか足で踏ん張り、倒れるのだけは避けられた。しかし一度歪んだ視界は正常に戻ってもどこか気持ち悪さを残していた。多分暑さのせいだろう。今日はやたらと日差しが強く、打ち水をしてもすぐに乾いてしまうほどだ。さっさと済ませてしまおうと買い物に出たのだが失敗した。もう少し日が落ちて涼しくなってからにすれば良かった。

急に往来で立ち止まった私を人々は怪訝そうな顔をしながら避けて通っていく。ここに突っ立っていてはいつ人にぶつかられても文句は言えない。動かなくては、と頭では分かっているのに、また先ほどのように目が眩むのではないかと怖くて一歩が踏み出せない。

さん?」

名前を呼ばれた。

「こんなところで立ち尽くしてどうしたんです?」

きょとんと、目を丸くさせた三好さんがそこに立っていた。名前を呼ばれたのは都合の良い幻聴ではないかと思ったのに、本当に実体を伴ってそこに彼が存在したので驚いた。彼が用事のありそうにない道とは言え、協會からの距離で言えば通りがかっても決しておかしくはない。

「いえ……少し、暑さにやられてしまったみたいで」

どうせ隠してみたって、彼にはすぐに見破られてしまうだろうと思って自分から言ってしまうことにした。答えさせながら彼はすっと私を道の脇へ移動させる。さっきまで一歩歩くのが怖かったくせに、三好さんのいる安心感からか、足は自然と交互に動いた。人通りと隔てるように彼が私の前に立って、瞳をのぞき込む。

「失礼します」

ぐいと三好さんの手のひらが額に押し付けられる。彼も同じように日の下を歩いていたはずなのに、その手はひんやりと気持ち良かった。

「少し熱いですね。この暑さでは無理もない」

そう言う彼はスーツをいつもと同じように全く暑さを感じさせず着こなしている。彼の周りだけこの熱気が避けていっているんじゃないかと思うくらいだ。彼は眉根を寄せたが、多分それはこの暑さではなく、情けなく動けないでいる私を見てのことだろう。

「どこかで休みましょう」
「いえ、歩けます」

そう言うと三好さんは何かを言いたそうな顔をした。けれども開けかけた口は何も言わず噤む。言ってくださればいいのに。反論されては困るくせに、こんなことを思う私は我儘だ。

「確かに協會までそう遠くない。早く帰ってゆっくり休んだ方がいいかもしれませんね」

彼の手のひらが離れる。彼の手は私の熱が移ってもうすっかりぬるくなってしまっていたのに、離れるのが惜しいと思ってしまった。離れないで。そのどこか不安な気持ちが顔に出てしまったのだろうか。彼はやわく微笑んだ。

「僕の手を取ってください」

すっと彼の手が差し出される。先ほどまで私の額に当てられていた手だ。すらりとした指は三好さんらしい綺麗なものだったけれども、ちゃんと骨ばって大きく、私とは違う男の人の手のひらだった。それに素直に手を重ねると思いの外強い力で握り返される。

顔を上げると、彼は目を細めていつものやさしい微笑み方をしていた。いつもは強く芯を持った瞳がそのときはやわらかい光を奥に見せたようになる。私は彼のその表情がとても好きで――同時にどこかむずむずとした落ち着かない気持ちになるのだった。

「足元、気を付けて」

まだ少しふらつく私に合わせ、ゆっくりとした歩調で歩いてくれる。私が少し手に力を込めれば、その分だけ三好さんも握り返してくれる。今このときは三好さんは私を心配して、私のことだけを考えてくれているのだという、ずるい思考が頭をよぎる。

――本当にずるい考えだと自分で自分を嗤う。これ以上はダメだ。優しさに甘えて付け上がっては。暑さでどろどろにやられた脳みそは、いつもと同じようには働いてくれなくて、ともすれば余計なことまで考えてしまいそうになる。いつもは自制出来ていることが、まるで出来なくなる。

もうここが限度だと、握っていた手の力をそっとゆるめる。すると彼は手を引いて、今まで以上の力で以って私の手のひらを繋いだ。私の体は自然と三好さんの方へ引き寄せられる。

「やはりふらついていますね。無理をせずこちらに体重を預けていいんですよ?」

私の浅ましい考えさえも全部全部見透かされているのではないかとも思う。彼の瞳の奥は先ほどと同じ色をしていた。頭の端がまたじりじりと焦げ付くような感覚を伴って、また自分を律せなくなる。

さん」

彼の声が甘く響く。今だけ、帰り着くまでの今だけだと言い訳して、心ごと彼に委ねてしまいたくなった。

2016.07.05