いつもと同じように廊下の向こうに彼の姿を見つける。同僚たちの会話を聞きながらも、いつものように目が勝手に彼を追って、いつもと同じように彼が私の視界の端から消えるまでこっそりと眺める。いつものように私の秘密の時間は終わって、いつものように仕事へ戻っていく――はずだった。

四日前、合コンに行ったあの日から変わったのは三好さんと目が合うようになったことだ。前はこっそり盗み見ていても彼がこちらを向くことはなかったのに、翌日から私が彼の姿を見つけてちらりと見るとすぐに彼も視線をこちらへ向ける。それも一度ではない。何度も、何度も。むしろそれまで一度も目が合わなかったことが不自然なくらいに、彼は丁度良いタイミングでこちらを見るのだ。以前は彼と目が合わないかとこっそり期待していたこともあったのだから今のこの状況は嬉しいことのはずなのに、毎回視線が交わったことにびっくりしてついパッと目を逸らしてしまう。

しかし今日はそれとは少しだけ違った。私の視界の端から消える直前にすぅっと三好さんの視線が動いて、私のものと交わる。ドキリと心臓が跳ねる間もなく、彼は目を細め、口元に綺麗な弧を作った。廊下で、彼のこんなやわらかい表情を見るのは初めてで、どんな表情をしたら良いか分からなくなってしまった。

「えっ、D課の三好さんこっち見て微笑んだ?! 何事?!」
「今さんに笑いかけたよね?」

そのまま三好さんが去っていくと、一瞬で同僚たちに取り囲まれてきゃあきゃあと楽しそうな声が上がる。今日は同僚たちと一緒にいたことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。当然のように先ほどの三好さんの表情は見られていたし、その先が誰に向かっているかもバレてしまった。彼は間違えることもないほどはっきりと視線を私に向けたのだ。しかも今回は目が合っただけではなく微笑んだ。他人からもそれと分かるように。私は俯いたままの顔を上げることが出来なかった。何となくで誤魔化してこの場を逃げられるほど頭も働いていない。彼の先ほどの表情がずっと目の前から消えなかった。

「この間三好さんと合コンで知り合って……」
「三好さんが合コン?! ちょっと話詳しく聞かせなさい」
「ちょっと待って、っていうかちゃん合コンに行ったの?」

少しだけ話せば矢継ぎ早に質問される。女の子たちはこの手の話題が大好きだ。さらには謎に包まれているが優秀でイケメン揃いとされているD課の人間と、自分の身近な人間が何かあったと知ったら盛り上がるに決っている。私だって当の本人でなければ大はしゃぎしただろう。でも多分私では彼女たちを満足させるような話は出来ないと思った。

「連絡先交換して家まで送ってもらった」

それで全部だ。あのあと本当に何もなかったのだ。ただ、『どうします?』と問われ取った手は、私の家前に着くまで離されることはなかった。手を繋いだなんて中学生じゃあるまいし、いちいち言う必要はない、と思う。でも、きゅっと握られた手はまるでそこに心臓があるかのようにドキドキして、思い出せば今でもそこに熱があるような気さえする。私に歩調を合わせて隣を歩く三好さんは夜の明かりに照らされていつもと少しだけ違うように見えたのだ。それを自分だけの秘密にして、誰にも言いたくない気持ちも少しだけあった。

「ちょっと何それ、どういうこと?」
「明日の昼休みに洗いざらい話してもらうからね!」

同僚たちは続きがあることを期待して興味津々な声だったが、休み時間が終わってしまったためそれぞれの仕事へ戻っていく。洗いざらいも何も先ほど話したこと以上のことは何もないのになぁと私は苦笑するしかなかった。

せっかく聞いた連絡先もあの日家まで送ってもらったお礼を言って以来、何も活用出来ずにいる。意気地がないと言われればそれまでだが、何と送ったものか悩んで書いては消して書いては消して、結局送信ボタンを押せずにいるのだ。

ポケットに入った携帯はその重さを主張している。そんな思いを振り払うように、胸元に抱えたファイルを持ち直す。私も仕事に戻らなくては。

さん」

私の名前を呼ぶ声に振り向くと、先ほど向こうへ歩いていったはずの三好さんが後ろに立っていた。まさか彼が自分の後ろからやってくるとは思いもせず、口から心臓が飛び出る思いだった。

「三好さん、さっきあっちに歩いて……?」
「用事がすぐ済んだので」

彼は何でもないような涼しい顔で言う。用事が早く済んだからといって私の疑問の答えになっていないような気もするのだけれどあのD課の人なのだからこれくらいは普通なのかもしれないと思い直す。彼といると何が普通なのか分からなくなりそうだ。

「先ほど同僚の方と何やら楽しそうな話をしていましたが、何の話をしていたんです?」
「えっと、その……先日三好さんと合コンで出会ったって話を」
「へえ、合コンで」

ひどく含みのある言い方だった。

「あっ、もしかして言っちゃダメでしたか……?」
「いえ、以前から廊下などであんなに熱い視線を送っておきながら面白いことを言うものだなと」

彼の言葉に全身が熱くなる。彼は気付いていたのだ。あの日合コンで言葉を交わすよりも前から、私が三好さんを見ていたことを。先ほど目が合ったのだってただの偶然ではなく、三好さんが私の視線に気が付いてこちらを見ただけのことだったのだ。私の想いなど彼には当初から筒抜けだったに違いない。一体いつから、どこまで。そんなことをぐるぐると考えていると「それよりも」と彼の声が降ってくる。

「今日の帰り、待っていてください。僕も同じくらいに上がれるはずなので」

そう言って三好さんが微笑む。いつもの見慣れた廊下で三好さんが私を正面から見つめているという事実がひどく非現実に思えた。たった四日前までこんなこと考えられなかったのに。

「食事にでも行きましょう」
「えっ」
「返事は?」
「あの、えっと」

私がしどろもどろになっている間に、彼の指先が私の手の甲をすっと撫でる。思わずつられてそちらを見てしまう。自然と、あの夜私に尋ねた三好さんの声が思い出された。重ねられた手の熱さも。ぱっと顔を上げれば、あの日と同じ笑みを作った三好さんがあった。私の答えを知っている顔だ。私の答えを知っていて、それが私の口から発せられるのを待っている。

「あなたが僕を選んだんですよ?」

言い終えると彼は少し眉を下げ、ひどくやわらかく笑った。

2016.06.30