「――わっ」

顔面に衝撃があって、次の瞬間、転ぶと覚悟した。前を向いていなかった。角を曲がるというのに勢いを緩めなかった。人がいるかもしれないと予想していなかった。色んな言い訳と後悔が瞬時に頭を過ぎったが、体の方は上手く動かなかった。とっさに受け身の体勢を取ることも出来ず、重心は後ろに傾いたまま。この倒れ方では頭を打つかもしれない――。

しかし、覚悟した衝撃はいつまで経っても訪れなかった。

「危ないですね」

上から降る声で、この人物が三好さんだと知る。見えるベストも彼のよく好んで着ている色だった。一瞬の混乱のあと、ぶつかった相手である三好さんに抱きとめられたのだと理解する。「すみません」と慌てて離れようとすると、彼の手が私の後頭部を押さえた。押し付けられる胸板にひゅっと息が止まった。

「待って。僕のボタンに髪が絡まってしまっている」
「えっ」

少し頭を動かそうとすると確かに髪の毛が攣る感覚がする。引っ張れば取れるんじゃないかと考えた瞬間、私が動いたことを咎めるようにまた頭を押さえられた。

「今外しますから」
「お願いします……」

どうやら感覚からして頭のてっぺんの髪が絡んでいるらしい。自分ではどうしようもないため、彼の言葉に素直に従った。勢いよく激突したうえに、絡んだ髪を解いてもらうなんて、どんな迷惑をかけているのか。息をすると彼の匂いがして、上手く呼吸が出来なくなる。決して嫌というわけではないが、この距離は些か落ち着かない。

「三好さん、まだですか?」
「まだです。動かないで」
「三好さん」
「まだ」

焦れた私が変に動かないようにするためだろうか、彼の左腕が私の背中に回っていて、そればかりが気になる。彼の腕が触れる背中が異様に熱く感じられて、それを気にしないようにすれば今度は彼が髪に触れる感覚ばかりが研ぎ澄まされ、彼の手の動きひとつひとつを追ってしまう。目の前は三好さんのスーツの色が広がり、息をすれば彼の匂いが肺に入り込む。背中に回された彼の腕と、髪に触れる手。強烈に彼の存在を意識する。

「取れませんか?」
「もう少しこのままで」

完全に焦れて何度も同じ問いを繰り返すことになったが、返ってくる答えは全て否ばかりで。一体どんなぶつかり方をすればそんな複雑に髪が絡むのか。私の方は痛くなかったが、もしかして彼の方にはかなりの衝撃があったのではないかと不安になる。やたら力の強い野蛮な女だと思われていたらどうしよう。いや、でもぶつかったとき三好さんは驚いた声色こそすれ、衝撃に耐えている様子はなかった。そもそも怒っていたのなら、こんな風に優しい手つきで髪を解いてはくれないのでは――とそこまで考えて、はたと違和感に気が付いた。

「あの、三好さん?」
「ん?」
「み、三好さんってば!」

何かがおかしい。堪えきれずに彼の胸をぐいと押し返すと髪は抵抗もなく彼の胸元から離れる。視線を上げると、掬い取られていた一束が彼の手からするりと落ちていくのが見えた。

「や、やっぱりとっくに取れてたんじゃないですか!」
「僕はもう少しこのままでいてほしいとお願いしただけで、取れてないとは一言も言ってません」

嘘は言ってませんよと主張する彼がわざとやっていたことは明白だ。おかしいと思ったのだ。あの三好さんが片手とはいえ、絡まった髪を解くのにこんなに時間がかかるはずがない。もしもそれほど複雑に絡まっていたのだとしたら両の手を使わないのは不自然だ。触れる感覚も途中で絡まりを解くものから変わっていた。もっと早くに気付くべきだった。彼はとっくに解いていて、遊んでいただけなのだと。

これじゃあただ抱きしめられて髪を撫でられていただけだと気が付いて今さらながら顔に熱が集まった。もし先ほどの状況を他人に見られていたらどう思われるか――。実際言い逃れのしようもない。

「僕の胸に飛び込んでくるあなたが可愛らしかったので」

そう言って三好さんが口元に手を当ててくすりと笑う。それに私の熱がまた一段上がったような心地がした。

「飛び込んでなんかいません。ぶつかっただけです!」
「じゃあそういうことにしておきましょう」

私の方が正しいのに、どうしてまるで三好さんが譲ったかのように言うのか。私が少し悔しい思いをしたところで三好さんはどこ吹く風だ。そもそも私がぶつかって絡んだ髪を解いてもらったのは事実なのだからあまり強くも出れない。私ばかりがひとりで彼を意識してどぎまぎしている。

「今度は本当に僕に甘えてくれると嬉しいんですけど」

その言葉で、また彼の腕の中の感覚を思い出してしまった。彼の甘やかな声が反芻される。きっとあの距離では私の心音の速さも、考えていることも、彼には手に取るように分かってしまったに違いない。

2016.06.18