カチャリと扉の開く音がして思わず包丁を動かす手を止めた。見ると入り口に三好さんが立っていて、「おや」と言った。ここに立っているのが私だったことが意外だったのだろう。包丁の音から誰かいるのは分かっていたが大方福本さんだと思っていたのだろう。もっとも、この場に立っていることが多いのは私よりも福本さんだからそう考える方が自然だった。

「三好さん、すみません、ちょっと夕飯の支度が遅れ気味で……」

手が離せないことを謝罪し、再び包丁を握る。トントンと音だけが響く。三好さんが立ち去る気配はなく、かと言って何かしている様子もないことが不自然だった。本当にこの食堂に用事があったのか不思議に思う。手元を止めて、ちらりと見ると彼は先ほどと変わらない位置に立っていた。

「もしかしてお腹空きました?」
「まさか。どこかの誰かじゃあるまいし。水を飲みにきただけですよ」

そう言って彼は肩を竦め、やっと入り口前から動いた。本当に彼が空腹ではないかと疑ったわけではない。波多野さんなんかはたまにお腹が空いたと食堂にやってくることがある。小田切さんがつい先日何かつまめるものはないかと聞いてきたのは珍しかったから記憶に残っている。けれども三好さんがそんな風にしているところなんてこれっぽっちも想像出来なかった。三好さんが空腹に堪えている姿なんて存在するのか。そもそも彼に空腹なんてものが存在するのか。

「……いつもこうなんですか」

主語のない問いかけに一瞬遅れて食事の準備のことを聞かれているのだと理解する。コップに水を汲んで差し出すと彼は小さく礼を言って受け取る。

「いえ、福本さんが作られて、私はお手伝いするだけのときも多いですし。あとは実井さんなんかは私ひとりだと手伝いを申し出てくださることも多いですね」
「実井が?」
「ええ、いつも助かっちゃってます」

実井さんは、ごく自然に手伝いを申し出てくれる。いつも物腰の柔らかい実井さんらしい。優しいというか気が利くというか、とにかくこちらが少し困っている絶妙なところに現れて助けてくれるのだから彼には頭が上がらない。手伝わせるのはどうかと思う心もあるのだが、他の仕事を済ませつつこの大人数の食事を一人きりで用意するのは厳しいものがあるのも事実で、つい言葉に甘えてしまうのだ。

さん」

名前を呼ばれ、返事をしながら顔を上げると三好さんがこちらへやってきて、私の隣に並ぶ。一体どうしたのだろうと訝しに彼の顔を覗けば、彼もまたこちらを見つめ返してきた。何かを取りに来た様子でもない。第一、食器棚は私の後ろだ。

「何をすれば良いですか」
「えっ」

思わず間抜けな声を出せば、三好さんは眉をちょっと寄せた。

「手伝います」
「え、でも……」
「僕では不服ですか」

正直言うとこの会話の着地点がここになるとは思っていなかった。私が手伝ってもらおうだとかそういうことを全く考えていなかったのもある。準備が遅れ気味と言っても、皆がお腹を空かせて餓死寸前になるだとかいうわけでもなく、いつもは時間ぴったりには出来上がっていて皆が食堂に来るのを待っている状態のものが、どんなに急いでも十分かそこら待たせてしまうだろう程度のものだったからだ。

でも、それよりも何よりも、三好さんはそういうことをしないと思っていたのが正しい。彼が夕食の準備を手伝うなどと言うところがまったく想像していなかった。機関員は皆手先が器用だし、何でも出来るから、多分料理なんかももしかしたら職人並に作れてしまうのかもしれない。彼の高い能力を考えれば私の手伝いなどさほど労力の掛かることではないのだろう。それでも、何となく『それじゃあ僕はこれで』などと言ってこの場の会話は終わるだろうと思っていたのだ。

「――いえ、嬉しいです」

三好さんが手伝いを申し出てくれたという事実がじわじわと私の中にしみこんでいく。私のことを想ってくれたのだという事実が。自然と笑みも溢れるというものだ。スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をきれいに折りながら「それに」と彼が続ける。

「それに、またこういうことがあれば僕を呼んでください」
「今日はたまたまで、こういうことはそうないですよ」
「全くないとも言い切れないでしょう」

その答えも少し意外で、こんな風に彼が食いさがるとは思っていなかった。次からはもっと余裕を持って早く準備を始めるつもりだが、確かに彼の言うように絶対ではない。三好さんの言うことは正しい。でも、彼の言う『またこういうことがあれば』と言うのはただの社交辞令に過ぎないと思っていたのだ。それなのに、また三好さんと一緒にまた今日のような時間を過ごせるかもしれないと思うとふわふわと浮くような心地がした。

「そうですね、そのときはまた三好さんにお願いします」

私がそう言うと彼は満足そうに笑うのだった。

2016.05.29