さん」

聞き慣れた声で呼び止められ、振り返るとそこには三好さんが立っていた。彼を大東亞文化協會の外で見るのは珍しい。彼らが街に繰り出すのは夜が多い。仮に昼間出掛けることがあっても、私と行き先がかち合うことは今までなかった。福本さんとならば商店街で出くわした経験があるが、そもそも三好さんが出掛ける先などまったく知らないことに気が付いた。きっとお洒落で上品な場所なんだろうなという想像程度だ。

「買い物帰りですか」
「ええ、ちょうど今晩の夕食の材料を買い終えたところです」

手に持ったかごをちょっと持ち上げて答えてみせる。とはいえ、かごの中には底に少しの野菜しか入っておらず軽いものだった。昨日の昼間に福本さんが買い出しに行ってくれたからだ。私は今日になって足りなくなった少しのものしか買っていない。

「それじゃあ少し僕の用事に付き合ってもらえませんか?」
「いいですけど、どこへ」
「心配しなくともそんなに遠くへは連れていきませんよ」

ちらりと私が手元のかごを見ると、「夕飯の支度には間に合います」と彼は形の良い唇で言った。

 ◇

彼のあとについてやってきたのは人の多い街だった。見慣れぬ街についきょろきょろと視線はさまよう。行き交う人々は皆モダンな格好で、いかにも三好さんらしい場所だと思った。慣れた場所なのか目的地へ向かって通りを歩いていく。

それに対し、私はちょっとお夕飯のお買い物に出る程度の、いつも通りの格好はこの場にふさわしくないような気がした。道を歩いているだけなのだけれど、何だか少し恥ずかしくなって少し視線を下げた。

特に隣を歩く彼とは不釣り合い――

「あれ、三好さん?」

ふと意識を向けると半歩前を歩いていたはずの彼の姿がなかった。知らずのうちに追い越してしまったのかと振り返っても彼の姿はどこにもない。知らない顔、顔、顔――。ここは人通りが多い。

「三好さん?」

思わず大きな声で呼んでしまいそうになるのを抑える。あまり無闇に目立って人の記憶に残るようなことは避けねばならない。いくら“三好”という名が偽名だとはいえ、目立つように呼ばれては出てくることが出来なくなるだろう。ここで大声で名前を呼ぶのは得策とは言えない。

「三好さん、どこですか」

それでも、もう一度だけ小さな声で呼びかける。彼ならば呼べばすぐに来てくれる三好さんと一緒だからと安心してここまでの道順はほとんど覚えていなかった。帰り道も彼が知っているだろうと。人に訊けば何とかなるだろうが、どうしようもない心細さが胸に広がっていく。

さん」

声に思わず勢いよく振り返ってしまった。そこにはいつも通りの何でもないような顔をした三好さんが立っていた。

「み、三好さん……」

安堵で体の力が抜ける。こんなにあっさりと見つけてもらえるとは思っていなかった。

「良かった。はぐれてしまったかと……」
「不安な思いをさせてしまってすみません」

そう言って彼は少し眉尻を下げた。私がぼんやりと、鈍くさかっただけなのに三好さんに謝らせてしまった。「こちらこそすみません」と小さく謝罪を述べると三好さんはやわらかく目を細めた。

「さぁ、帰りましょう」

彼の手が導く方へ歩いて行く。ひとりであれだけ心細かった気持ちがとけていく。知らない土地で思った以上に気を張っていたらしい。そうして彼の後について少し歩いたところではたと気が付く。

「あれ、三好さんのご用事は?」
「もう済みました」

もしかして私が彼の姿を見失っている間に済んだのだろうか。一体私は何のためについてきたのか。この歳になって迷子になりかけるなんて情けないやら恥ずかしいやら。

しかし頭の中でごちゃごちゃと考えていてはまたひとりになってしまいそうで怖くなる。「三好さん」と声を掛ければ「何です?」と返事が返ってきた。私は今度はその背中を見失わないようにしっかりとついていく。ちょっと足を早めて彼の隣に並べば、彼のきれいな横顔が見れた。

「三好さんはよくこの辺りへ来るのですか?」
「――いえ、今日はたまたま目的があっただけですよ」

そう答える彼の目は満足気に細められていた。

2016.05.25