「あっ、ちゃん」

後ろから飛んできた声を聞いた瞬間、今日は最悪な一日だと思った。そうでなくても、日中は自分の責任ではないことで上司に注意されるわ、タイミング悪く仕事が舞い込み残業になるわで決して良い一日とは言えなかったのだけれど、彼の出現で“最悪”が決定付けられた。

「何なに、こんな時間まで残業? 大変だねー」

そう言って彼がこちらへやってくる。この部屋に残っているのはまたまたタイミング悪く私ひとりだけで、つい眉根を寄せる。手元に広げた仕事たちがあるからこの場から逃げることも出来ない。

――私は彼、神永さんが苦手だ。

三週間前、私は付き合っていた彼氏に振られた。理由は何だったか、と一緒にいると疲れるだとかと俺はやっぱり釣り合わないだとかは一人で生きていけそうだからとか何とか言われたような気がする。何だその理由はと思ったが、別れたいと言われて、相手の気持ちが冷めているのに今さらどうしようもないと思って承諾した。しかし真実はなんてことはない、彼の方に別に好きな女が出来たのだ。彼の隣を歩いていたのは小さくて、可愛らしくて、女の私が見ても守ってあげたいと思うような女の子だった。ああ、やっぱりこういう女の子がいいのか。それはすとんと心に落ちて納得するとともに、息をするのがひどく苦しくなった。

あの日も今日と同じようにひとりで残業していて、帰る間際になって会議室に忘れ物をしていることに気が付いて取りに行ったのだ。遅い時間、暗い部屋にひとりになったのがいけなかったのかもしれない。急に先のことを思い出してしまったのだ。心が重くなって息が上手く出来なくなって、ぽろぽろと涙が溢れてきて止まらなくなってしまった。こんなところに誰も来ないという思いもあったのかもしれない。

それなのに神永さんはそこに現れたのだった。

急に開いた扉に私は驚いて、顔が涙でぐちゃぐちゃになっているというのについそちらを見てしまった。暗い部屋で女がひとり泣いているという状況にも関わらず彼は一瞬目を丸くしただけで、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。その間も私の目からはぽろぽろと滴が落ち続けていて、私は混乱しながらも人にこんな姿を見られるわけにはいかないと目元をこすった。

『泣くの我慢しなくていいよ』

やわらかい表情と声、そして背中に触れる彼の手の温度に安心して、そのあとは堰を切ったかのように泣きじゃくってしまった。人前で泣くなんて普段の私では考えられないことだったけれど、彼にはそうさせる何かがあったのか私がそこまで追い詰められていたのか。しかし、泣いて、心の内をすべて吐き出したら今までの息苦しさが嘘のようになくなったのも事実だった。

そのあと彼がD課の神永さんであることを知った。彼が、女と見れば誰彼構わず声を掛けるような人間であるということも同時に分かったことだ。きっと、あのときのことは彼にとっては息をするように自然なことで、なおかつ彼にとって特別記憶に残るようなことでもなかったという事実に、私は理不尽と分かりながらも怒りのようなものを覚えた。

それでなくとも、彼にはみっともない姿を見られているのだから、こちらとしては気まずさがあって当然だった。

「手伝おうか?」
「大丈夫です。もう終わりますので」

本当に彼に手伝ってもらうまでもなく、もう仕事は終わるところだったが、わざと突き放すように冷たい声色を出す。私に構わないでほしいと態度に出したつもりだったのだが、「本当? 丁度良かった」と聞こえたので悪い予感がした。

「もしかして今日これから暇? 俺今日ひとりでさー」
「暇じゃありません」
「えー、そんなこと言わずに」

私は仕事に使っていた資料やら筆記具やらを順番に片付けながら言う。彼の方は見ない。多分彼は今、捨てられた子犬のような顔をしているに違いない。それに騙されてはならないのだけれど、見てしまえば分かっていてもほだされてしまうようなものが彼にはあった。だから、見ない。

「他の人を誘えばいいじゃないですか」
「来てくれそうな子三人に電話掛けたけど皆今日は無理って」

じゃあ私は四番目か。そこまで考えて、その私の考えの先にある意味には気付かないふりをした。

「じゃあ私も無理です」
「この間の合コンには来てくれたじゃん」
「あれは友達が気になる人がいるって言うから……!」
「友達思いなんだ? ますます好きになっちゃうなぁ」

私は思わず答えにぐっと詰まる。こういう風に軽く言葉を使うから嫌なのだ。

「とにかく、他の人を誘ってください!」
「だから、三人に掛けたけど全員今日は無理って言うんだよー」
「じゃあ四番目の子に掛けたらいいじゃないですか」

わざと自分を抜いた数を言う。そこに同じように入れられたくなかったからだ。なんで私を誘うのか。たまたまそこにいたとはいえ、一度断られたのならさっさと別の子に声を掛けたらいいじゃないか。私は、次は誠実で優しくて包容力のある男性がいいのだ。次はそういう人と付き合いたい。本当の私を見てくれて、私ひとりを愛してくれるような――

「そんなこと言って、俺が本当に四番目の子に電話掛けて、その子がオーケーしちゃって俺がそっちに行ったら、君はさびしい気持ちになる」

決め付けたように言いながら、彼は私の前の机に片手をついて、こちらをずいと覗き込んだ。それまでのおどけたような表情から一瞬で色が消え、彼の口角だけがにやりと上がる。

「それに、自己嫌悪に陥るだろ?」

この男の目は私を見透かしている。

2016.06.27