食堂の扉を開けたとき、本当は心臓が変なふうに跳ねたのだ。


「実井さーん! 今日はいいお茄子が手に入りましたよ!」

私が騒がしく食堂に入ってきたにも関わらず、窓辺で本を読む実井さんは騒音が全く聞こえていないかのように手元の本から視線を離さなかった。表情も変えず、頁を捲る。

「八百屋のご主人のおすすめです!」

私も実井さんの様子に構わず続ける。聞いていないのならばそれはそれで別に良い。それに、彼らはこちらの話を聞いていないようでいて、実は聞いていたりするのだ。彼らの中で、本を読むことと私のどうでも良い話を聞くことは同時に出来てしまうくらい容易いことらしい。以前も話し掛けたが読書中だから止めようとしたら『聞いています』とそれまで私が話した内容をつらつらと挙げ始めたのは記憶に新しい。彼らに出来ないことなんてないんじゃないかと思うくらいだ。それを伝えればきっと彼はなんてことはないように『そうかもしれません』なんて言いそうだけれど。

「外暑かったんですけど、ついつい話し込んじゃって! 奥さんも出てきて三人でもうすっかり夏ですねーなんて話をして。あっ、実井さんは茄子料理何が好きですか?」

ぱらりと頁を捲る音だけが返事をする。

「やっぱり和え物とかがいいですかねぇ。私は茄子の天ぷらが好きなんですけど、ちょっとこの暑さで揚げ物作るのは少しつらいなぁと思って」

先ほどまで外にいたせいで首筋にはじわりと汗が滲んでいる。いつもより遅くなってしまって少し急いで帰ってきたのもある。首元をぱたぱたと手で扇ぎつつ、買い物かごから買ったものを取り出す。今日は特別に沢山おまけをしてもらった。

今日買い物に行った八百屋のご主人とは親しくさせてもらっていて、たまにこうしておまけをつけてくれることもあるし、ついつい立ち話が盛り上がってしまうことがある。奥さんも私をかわいがってくれて、お料理のコツだとか他の、例えばこの先の通りのお肉屋さんが今日は安売りをやっていたから行った方が良いだとかそういう情報も教えてくれるのだ。

「八百屋の奥さんは茄子は素揚げが一番だって言うんですよ」

ふと見ると、ふわりと実井さんの髪が揺れた。どうやら窓から風が通っているらしい。あちら側に立った方が涼しいかもしれない。夕食の準備を始めるまではまだ時間がある。少しくらい休憩してもいいだろうと移動し、彼の正面に座った。

「でもこれは福本さんにも相談しないとだめですよね」

再びさわやかな風が通る。思った通り、ここは涼しい。だからこそ彼もここで読書を続けているのだろう。彼の指がまた頁を捲る。伏せている目は長い睫毛に縁取られていて、彼の白い肌がやけに目を引いた。

「実井さんが食べたいものがあれば口添えしてあげますから言ってくださいね」

実のところは八百屋で茄子の話で盛り上がって帰りが遅くなったわけではないのだ。本当は、八百屋の奥さんが『ちゃんは良い人はいないの?』なんて突然話題を振ってきたからだった。何の前触れもなく振られた話題に驚いたのも事実だが、それよりも何より投げられた問いに『いませんよ!』と答えながらもとっさに実井さんの顔が浮かんだことに動揺した。なぜここで実井さんが出てくるのか。

だから、帰って食堂へ入ったときにここに実井さんがいて、ドキリとしたのだ。変に彼が気になってしまって、落ち着かないせいで、私はいつも以上に喋り続けている。

「そうだ、今日はおまけできゅうりももらったんでした――」

パタリ。

言い終わる前に突然音が響いた。何事かとびっくりして顔を上げると、目の合った実井さんがにっこりと微笑んだ。あまりにもきれいに、形良く口角が上がるものだから、瞬間私はそれに魅せられてしまった。


「そんなに僕に構われたかったんですか?」


またふわりと風が吹き、実井さんの髪と、私の髪を揺らしていった。彼の口元と目尻はいつも通りのやわらかい笑みを浮かべているのに、まっすぐ私を見つめる瞳の奥はひどく真剣なものだったことにたった今気が付いた。

2016.06.11