庁舎内の自販機の前で大きく伸びをする。壁に時計を見るともう深夜と呼べる時間に突入していた。今日はあと三十分もすれば喫緊の仕事が片付くところまでこぎつけたが、終わりが見えたことによって逆に安心してしまったのかどうしようもない眠気に襲われてしまった。それを振り払うためほんの少しの気分転換とカフェインのためにわざわざ小銭を握りしめて自販機までやってきたのだ。きちんと眠気を覚まさなくては――そんなことを考えていると不意にピタリと冷たいものが頬に触れた。

「ぎゃ」
「バカっ!」

叫び声を上げそうになった口を後ろから塞がれる。その声には聞き覚えがあった。こんな悪戯を仕掛けそうな人物の心当たりも。悲鳴を引っ込めて振り返ると想像した通りの人がいた。目が合うと彼は、不意打ちの成功を喜んでにやりと口角を上げた。

「波多野」
「缶コーヒーを頬に押し付けられたくらいでびびんなよ」
「こんな幼稚な悪戯しかけてくる人がいるとは思わなかったんだから仕方ないでしょ」
「……よくある悪戯だろ」

私の言葉に波多野は溜め息を吐いて、ひらひらと手を振りながら離れる。確かに陳腐な悪戯と言われればその通りで、そんなものに大げさに驚くなんて気が抜けていたとしか言いようがないが、こんな遅くまで仕事をしていて一休み入れようとしているところだったのだから少しくらい気が抜けていたっていいじゃないか。

「ほら」

そう言って波多野は持っていた缶コーヒーを差し出す。それは先ほどまさに私がボタンを押して買おうとしていたものだった。

「くれるの?」
「いらないなら返してもらうけど?」
「もらう」

先ほど頬に感じた通り缶コーヒーはまだ冷えている。波多野はこれをどこで買ってきたのだろう。さらに、彼の手にはもう一本自分で飲むらしいブラックコーヒーがある。じゃあ私にくれたこのコーヒーはわざわざ私のために買ってきてくれたのだろうか。一瞬そんな都合の良いことを考えたけれど、そのためには私が残業していてこの時間にちょっと自販機に行こうとしていたことを知らなくてはならない。そんなタイミングの良いこと普通不可能だ。多分波多野のことだ。ブラックコーヒーを買ったつもりが、自販機から微糖のコーヒーが出てきてそれを押しつける相手を探していたとかそんなところだろう。ちょうど自分が買おうとしていたものと同じものだし、深く考えずにもらうことにした。

「ありがとう」
「おう」

プルタブを開け、甘いコーヒーを喉に流し込むと、糖分とカフェインが体に染み渡るようだった。おそらく気の持ちようの問題だとは思うが、少し頭がすっきりした気がした。波多野も私の隣に腰掛けて同じようにブラックコーヒーを飲んでいる。D課の人間がこんな時間まで残業しているなんて珍しい。D課係長である佐久間さんが残って報告書を書き上げている姿はよく見かけるが、その他の面々は基本的に残業することは滅多にない。さすがに捜査中は戻ってくる時間が遅くなることもあるようだが、本庁に滞在しているのはほんの少しの時間だけだ。それが今日はこんなところで休憩するなど一体どうしたのだろうと思っていると、波多野の方から口を開いた。

「お前仕事は?」
「あと少しで終わる」
「ラーメン食いに行くけどお前もくる?」
「えっ……女の子を、しかもこの時間にラーメンに誘う?」
「奢ってやろうと思ったけどやめた」

奢るという言葉にぴくりと反応する。缶コーヒーもくれて、ラーメンも奢ってくれるなんて給料日前のくせに羽振りがいい。正直自分はとても助かる。ただ、深夜のラーメンのカロリーが及ぼす体型への影響が気になるくらいで。

「どうしたの、波多野、今日優しいじゃん」
「お前今日頑張ってたみたいだからな」
「……いつもと変わらないけど?」
「じゃあ『いつも頑張ってるから』だよ! これで満足かよ」

最終的に投げやりな言葉を放った波多野に、適当なことを言うからだと笑う。

「人の揚げ足ばっか取りやがって」
「波多野だって、私とラーメン食べたいだけだって素直に言わないくせに」

そう言うと波多野はぐっと黙った。いつもなら『バカなこと言うな』などといった言葉が間髪入れずに返ってくるはずで、私もそれを予想して言葉を発したというのに肩透かしを食らった気分だった。

「あれ、何、図星?」
「……行くのか行かねーのか」
「行く」
「よし」

私のからかいを無視することに決めたらしい波多野は立ち上がって中身の空いた缶をゴミ箱に投げ入れる。私も彼に倣って最後の一口を胃に流し込んで立ち上がる。

「次はお前に奢ってもらうからな?」
「私が波多野に奢る理由ないでしょ」
「いーや、あるね」

含みのある声色で波多野は確信めいた笑みを浮かべる。こういうときの波多野は大抵良くないことを考えている。もちろん“私にとって”良くないことだ。彼に何か弱みを握られたりしないよう気を付けなくては。波多野が本気になれば私が弱みをさらけ出す状況からしてでっち上げかねない。

「“いつも頑張ってる私”には次も波多野が奢ってくれるよね?」

私がにっこりと笑顔を浮かべて返せば、波多野も「言うじゃねーか」とにやりと笑う。彼とのこうしたやりとりや過ごす時間がとてつもなく心地良かったりするのだ。

2016.07.27