昼休みにいつものメンバーがカードゲームに興じていることはよくある光景だった。しかし見てみれば今日は意外にもやっているのはババ抜きだった。しかも全員参加で、彼らがよくやっている騙し合いで遊んでいる様子もない。ならばイカサマでもしているのかと思えば、そんなことは誓ってやっていないと言う。純粋にババ抜きを楽しんでいるのだと。「苗字もやる?」と問われ、それならばと暇つぶしに参加することにした。イカサマはやっていないが、ただ賭けはしていて罰ゲームがあるらしい。多分購買で何かを買いに走らされるくらいなのだろうと思い、それも承諾した。よく誰かが昼休みが終わるギリギリに行かされているのを見ていたからだ。「やる」と答えた瞬間、波多野が何も言わず眉をひそめたのだけは見えた。



「やったー! あがりっ!」
「くっそ!」

一騎打ちの末、二枚のカードを机の上に放ったのは私の方だった。負けた波多野はジョーカーを机に叩きつけて悪態をつく。正直波多野と最後まで残ってしまった時点で負けを覚悟した。波多野にはきっと私の考えていることが手に取るように分かってしまうだろうと思った。常に私の考えは彼にはお見通しだし、そもそも一騎打ちの手の読み合いで勝てるわけがないのだ。心理戦とか一切関係ない大人数のうちに上がってしまうのが私の勝利パターンだ。神永が私の前に上がってしまったときは絶望的な思いがした。例え待っているのが他愛もない罰ゲームだったとしても負けるのは嫌だったのだ。けれども、勝利の女神は私に微笑んだ。ジョーカーは私と波多野の間を何度も行ったりきたりしたが、奇跡的に波多野相手に勝つことが出来た。

「波多野に勝ったー!」
「お前マジで調子乗んなよ……」

机に肘をついて頭を抱える波多野が腕の間から睨んでくるがまったく怖くない。今回勝ったのは私なのだ。彼に対して優越感を感じられる滅多にない機会だった。心に余裕も出てくるというものだ。

「罰ゲームっ! 罰ゲームっ!」

神永が手を叩きながら楽しそうな声で言う。それに田崎と実井が手拍子を合わせる。とりあえず私もそれに乗っておいた。何せ今回罰ゲームを受けるのは私じゃないのだ。

「チューしろー!」
「なっ?!」

後ろから聞こえてきた言葉にドキリとする。チューって何?! それが今回の罰ゲームだなんて聞いていない。もっとも、今神永が勝手に決めたのだろう。下から三番目のクセに調子に乗っている。神永のその場のノリだけの発言のせいで私の心にもやもやが広がっていく。一体、誰に……いや、そもそもまさか本当にするわけがない――そう言い聞かせて落ち着こうとするのだけれど、黒いもやもやは一向に晴れてくれそうにない。暗い顔をする私に、甘利が安心させるようにポンと肩に手を置いた。

「大丈夫、相手はちゃんと波多野の彼女にするから」

波多野の彼女――って私だ!

「全然大丈夫じゃない!」
「大丈夫、大丈夫」
「なんで私まで!」

振り向くと全員が私を見ていた。ずっと興味なさそうにしていた福本と小田切までまるで当然知っていたと言うかのようにちらりとこちらを見やる。確かに私は波多野と数週間前から付き合っている。でもそれを彼らに話したことはないはずだ。話したところで散々からかわれるのが分かっていたから黙っていようということになったのだ。そもそも皆の前でどういう顔で報告しろというのか。絶対無理だという結論になった。それでも気付くやつは気付くだろうからそれはそれで良し。でもこんな形で公の話題に出されるとは思っていなかった。

「苗字も下から二番目だろ。しかもぶっちぎりでドベ争い。同じ同じ」

絶対神永あとでシメる。

黒いもやもやは一瞬で晴れたが、代わりに勝利の余韻もすっかり消えてしまった。最下位が罰ゲームという話ではなかったのか。勝手にルールを変える神永を睨んでみても彼はにやにや笑いを浮かべるばかりで、まるで効果がなかった。

「お兄さんが聞いたらところによるとふたりはまだキスもしてないっていうじゃないか」
「おい、それをどこから……!」
「とある信頼出来る情報口からね」

図星を突かれて珍しく余裕のない声を上げる波多野に、甘利が片目を瞑りながら答える。ごめん、波多野。その原因私だ……。友達と恋話をしたときにまだだと話してしまった。別にまだだからどうこうというわけではなく、ただ単純に聞かれたから答えてしまったのだ。友達には嘘を吐きたくなかったのだから分かってほしい。私の友達も悪気があって甘利に話したわけではなく、多分私の名前なんかこれっぽちも出していないと思う。出さなくても甘利にはそれが私のことだと分かったのだろう。甘利が沢山の情報を総合して考え、答えに行き着いたのだ。だから波多野は私を睨むのはやめてほしい。文句はお節介な甘利に言って。

じりじりと後ずさる私に三好があからさまにため息を吐く。

「さっさと済ませたらどうですか」
「適当なこと言わないで!」

さっさと済ませられる私の身にもなれ! 別に初めてのキスはロマンチックにとか思ってるわけじゃないけれど、こんな風に人の楽しみに消費されるのは御免だ。

「波多野、ここまで言われて男らしくないですよ?」

実井はそうやって的確に波多野を煽るのはやめてほしいし、波多野もあからさまにちょっとムッとした顔をするのはやめてほしい。そう簡単に煽られるなと言いたいけれど、多分彼の中ではちゃんとこんな単純な手に乗ってはならないという理性は残っているのだろう。頑張れ理性、無駄に高いプライドに負けるな。

しかし、次に彼がこちらに向けた顔はいつもの退屈そうな表情ではなく、強くまっすぐな瞳だったから嫌な予感がした。

「覚悟決めろ」
「えっ、ちょっと待って……!」

一歩一歩波多野が近付いてくる。後ろに下がって逃げようとするが、性格の悪い実井が阻止する。ガッと両肩を掴まれて、正面に立つ波多野から逃げられなくなった。ひどく真剣な表情。その顔が少しずつ近付いてくる。もうどこにも逃げ場がない。諦めてぎゅっと強く目を瞑ると、ヒュウと誰かが短く口笛を吹く音が聞こえた。波多野の気配がもう、影の掛かるほど近い。彼の右手が肩から離れて、私の頬に添えられる。

私のファーストキスが――

しかし、ちゅっと小さな音を立てて何かが触れたのは額だった。

「えっ」

びっくりして目を開けると、ふいと波多野が顔を逸らすところだった。思わず額を手で押さえる。額には確かに何かが触れたあとがあった。じわじわと脳みそが溶かされるかのような感覚がした。

「もう、これでいいだろ」

ヒュウヒュウと口笛を吹いたり、これじゃあ罰ゲームをこなしたとは言えないとぶーぶー文句を言うやつらの間を通って、波多野は「これと、購買でパン買ってくるから勘弁しろ」と言って部屋を出て行ってしまう。残された私は、拍子抜けやら安堵やらの気持ちでその場にぺたりと座り込む。そばに立っていた実井がにやつき半分、哀れみ半分の表情で見下ろしてきたが、正直それに構っている余裕は私にはなかった。

「大丈夫ですか?」
「無理」

額へのキスですら初めてなのだから。

2016.07.02