ガチャリと無造作に食堂の扉が開き、反射的に視線をそちらに向けると、私がいつも心に思い浮かべるスーツの色が映った。

「あれ、いたの? 今日は随分と早いね」

その姿を認めると私の表情は自然と綻んでしまった。こちらからしてみれば私の方こそ甘利さんが来たという方が意外だった。しかも甘利さんひとりきりで、この部屋にいたのも私ひとり。つまり、ふたりきりだ。その事実に、それだけでふわりと心の一部が浮き上がるような心地がした。

「今日は天気が良かったのでいつもより早く洗濯物が乾いたんです」
「天気が良いどころか暑すぎるくらいだもんねえ」

そう言って甘利さんは汗を拭った。先ほどまで外に出掛けていたのだろうか。食堂は風が通る分幾らか涼しい。ぱたぱたと手で扇いでいる甘利さんに水を一杯手渡すと「ありがとう」と言って一気に飲み干してしまった。もう一杯汲もうかとしていると甘利さんが「待って」と止めた。

「ねえ、良かったらこれから氷でも食べに行かない?」

彼からすれば何気ないその誘いの言葉にひとつ引っかかりを覚えた。ひとつの記憶が瞬間的に浮かび上がってくる。

ちゃん」

それが、まるで親戚の子を呼ぶような響きだと思った。

それまで何度も甘利さんには名前を呼ばれている。それこそ数え切れないほどに。それなのに突然気が付いてしまったのだ。確かに私は甘利さんよりも年下で、彼からしてみたら本当に親戚の子を相手にするような感覚なのだろう。そんな風に気さくに名前を呼んでもらえて嬉しい気持ちと、もうひとつ。それだけでは足りない気持ちが心のどこかにあった。ざわざわとお腹の横あたりがむずがゆい感じがする。

「不機嫌そうな顔だね」
「えっ……そんな顔をしてましたか?」
「してた」

こうもはっきり言い切られてしまうと逃げられなくなってしまう。そんなに一目で不機嫌とバレてしまうような表情をしたつもりはないのだが、上手く隠しきれていたという自信もない。

「俺と出掛けるのは嫌?」

困ったように笑って尋ねるものだから、私は答えに窮してしまった。嫌なわけではない。むしろぜひご一緒したいくらいなのに、それを素直にそのまま伝えるのは憚られた。逃げるように視線を逸らしたけれど、その私の横顔に彼の視線がずっと注がれているのが嫌でも分かった。今度はドキドキと胸が勝手に鳴って、視線があちこち彷徨う。前を向いたらまっすぐに甘利さんと視線が合ってしまうから、逸らした顔を元に戻せなくなってしまった。

「何だか親戚のお兄さんを思い出して」
「へえ」
「以前会ったとき、同じように氷を食べないかと言って」

それまでだって変わらず甘利さんは私のことを呼んでいたはずなのに、突然親戚の子を呼ぶようだと思ったのは甘利さんが彼と同じことを言ったからかもしれないとそこでやっと思い至った。

「その親戚のお兄さんというのは君の何に当たる人なのかな」
「えっと……祖母の兄弟の孫なので、はとこですね。会う機会は少ないですけど」

そのとき会ったのも一年振りだったのではないだろうか。その前も同じ、じんわりと熱がまとわりつく時期に会ったような記憶がある。

「そのお兄さんはどんな風に君を誘うの?」
「この間は突然『氷でも食べないか』と言って私が答える前にどんどん先へ歩いていってしまうので追いかけるのが大変でした。入ったお店でも何故か一番上等なものを私に食べさせようとして」

未だにそのときのことを思い出すと悔しい心地がする。お店に入り、席に腰を落ち着けると、彼は『何が食いたい?』と言いながらも私の話を全く聞いてくれず、勝手に注文してしまったのだ。

「私は違うのが食べたかったんですよ」

私は別に食べたいものがあったのにそれを聞いてもらえなかったのが悲しかった。もちろん食べたかき氷は彼が頻りに勧めるだけあってとてもおいしかったので満足しているのだけれど。

私が不満を口にすると甘利さんは「ふふ」と小さく笑った。それを見て、私はまた子どもっぽいことを言ってしまったと気が付く。これでは自分の話を聞いてもらえなくて拗ねる子どもそのものではないか。彼の前ではなるべく大人っぽくありたいと思うのに、どうしてもうまく取り繕えなくて、思ったままを話してしまう。

「じゃあ今日は君の好きなものを食べさせてあげる」

恥ずかしくなって、言わなければ良かったと後悔して俯くと、それを追い掛けるように甘利さんが屈み込んで私の顔を覗き込む。

「氷よりもみつ豆とかの方がいい? おいしいところがあるんだ」

そう言うと彼は私の手を掬った。そっと手を包まれて、やさしい声で尋ねられるといいえとは言えない。その仕草は幼い子に諭すようにも思えたが、ひどく丁寧にやさしく私の手を引くそれは、ただそれだけではないかもしれないと私が勘違いしてしまうようなものがあった。まるでひとりの女性として扱われているような。――彼は私の心を読んでいるんじゃないかとすら思えた。

ゆったりと誘われるまま、しかし自分の意思で一歩踏み出すと彼はにっこりと満足そうに笑みを深めた。

「出来れば俺のおすすめも食べてほしいなぁ。頭がキーンとするくらい冷たくておいしいんだよ」

外に出ると、もう午後だと言うのに眩しすぎる光が刺すように降り注いでいた。彼の言う冷たい氷をより一層楽しみにしながら、私は彼に手を引かれて歩いた。

2016.08.31