ちゃん、こっちこっち」

その声で、手を上げて軽くひらひら振る彼の姿を見つけ、小走りで駆け寄る。場所は中庭でと聞いてはいたが、それが具体的にどの辺りか分かっていなかったので彼が先に気が付いてくれて内心ほっとした。

「甘利さん」

二つ上の先輩である彼は私のことをさん付けで呼ばせる。最初は甘利先輩と呼んでいたが、なんだかむずがゆいからやめてほしいと言われた。曰く部活動でもないのだからそんなに堅苦しくなる必要はないと。彼は下の名前を呼び捨てで呼ばれたがり、私がさすがにそれはいくら何でも学校の先輩に対しどうかと言うと、ならば下の名前でさん付けはどうかと提案してきた。呼び捨てよりは随分マシになったがなんだか意味深な感じがする。やっぱりそれも無理だいうことで最終的に“甘利さん”で勘弁してもらったのだ。しかし彼も私が初めのふたつを受け入れられないことはよく分かっていたようで、初めて『甘利さん』と呼んだときはそれでもひどく嬉しそうに笑ってみせた。

「私も一緒で良かったんですか?」
「気にすることないよ。こちらこそ呼び出しちゃってごめんね。いつもお友達とご飯食べてるだろう?」
「それを言うなら甘利さんも皆さんといつも一緒じゃないですか」
「別につるんでいるわけじゃないんだけどね」

甘利さんはそう言うけれど、私の目には皆さんとても仲が良いように思える。お昼も何だかんだいいながら一緒に取っていることも多いように思えた。今日は私がいるのがイレギュラーだった。そこまで考えて、甘利さん以外の姿が一向に見えないことに気が付いた。私もチャイムが鳴ってすぐにやってきたけど、特別急いだわけでもない。誰一人やってこないのは少し不思議だった。

「皆さん遅いですねぇ」
「購買が混んでるのかな?」

私はあまり購買を利用したことがないが、確かに昼休みに入った直後はすごい人だかりになっているのをよく見かける。それに巻き込まれたとしたらパンを買うだけでも一苦労だと納得する。

「甘利さんはお昼お弁当なんですか?」
「いや、購買だよ。ついでに買ってきてもらえるよう頼んであるんだ。君をひとり待たせるわけにはいかないしね」

そう言って甘利さんは片目を瞑ってみせた。こういうことを自然に出来てしまうあたりが、この人はおそろしいと思う。女の子のハートを掴み放題じゃないか。私には直視出来なくて、つい視線を逸らすように俯く。

「なんか気を遣わせてしまってすみません……」
「いいや、俺が君と一緒にいたかっただけだから」

彼の態度はいつでも丁寧で優しく、二つしか違わないというのにクラスの男子とは全く違って大人っぽい。それは彼が特別持ち合わせたものなのか、まるで呼吸をするように自然にしてみせるのだ。それはおとぎ話の王子様のようで、女の子なら誰でもときめくに違いないと思った。

きっと、こんな風に気を持たせるような一言は彼にとって何でもないことなのだ。そう言い聞かせなければ、この心臓を抑えて今ここで彼の隣に座っていることなんて不可能だと思った。

「甘利さん」

思わず零すように呼んだ彼の名前はなんだかいつもと違うように響いた気がした。口の中でもう一度転がしてみると特別な味がした。彼の耳に届く私の声も同じような響きを持っているのだろうか。彼の名前を呼ぶたびにまるで呪いのように私はおかしくなってしまうのだ。

「……言っとくけど、俺の本心だからね?」

そっと、まるでこちらの許可を待っているかのように、彼の指先が私の手に触れる。それにどう答えたらいいのか、どれが彼の本当なのか図りかねる。

すると突然「あー!」と向こうから大きな声がした。ふたりして思わずそちらに視線が向いた。

「あー! 甘利、お前何抜け駆けしてんだよ!」
「ひとり姿が見えないと思ったらそういう魂胆だったのか」

神永先輩がこちらを指差しながら駆けてくる。その後ろを三好先輩、残りのメンツも購買の袋を手に提げながら歩いてくる。皆しっかりパンをゲット出来たようで、中にはずっしりと重そうな袋もあった。

「お昼、買ってきてあげましたよ」

そう言って実井先輩が購買の袋を甘利さんに差し出す。受け取る彼は少しだけ眉を寄せて不機嫌そうな表情をしてみせた。

「実井、そこは空気読んでくれないかな?」
「購買であなたの分のパンを買ってくることは了承しましたが、帰ってきて良い雰囲気だったときに皆を引き止める役目は食券三枚の中に含まれていません」
「食券三枚もふんだくっといてよく言うよ……」

「はぁ」と深いため息を吐き、疲れた様子で言う甘利さんとは対照的に実井先輩はにこにこと笑顔を崩さない。

「俺はいつも気を遣ってあげてるのになぁ」
「この中にいる誰もそんなこと頼んでいないと思いますよ」
「本当お前たちイヤ……」

大げさにしょげ込んで見せる彼の様子が何だかかわいらしくて思わずくすくすと笑ってしまった。いつもの雰囲気とは違う甘利さんだ。先ほどは別に彼らとつるんでいるわけではないなんて言っていたけれど、やっぱり仲が良いのだ。そう思って様子を眺めていると不意に隣で視線を上げた甘利さんと目が合う。

「話の続きはまた今度ね」

いつものように片目を瞑って、いつもの調子で言葉が落ちてくる。いつもと変わらなかったのに何故か、彼の言う“今度”がやってくるときを思うとドキドキと変なふうに心臓が鳴ったのだった。

2016.07.21