それは何の変哲もない放課後だった。その日、放課後することがなくまた金もなかったので、今日は友人数人と教室でだらだら過ごしていた。そのうち喉が乾いたからジャンケンで負けたやつが下の自販機で全員分の飲み物を買いに行くということになった。それでなぜだか私が負けた。「風介、俺コーラな!」「お茶よろしく」と友人は好き勝手に注文を付けてくる。適当に聞き流していたら案の定何を頼まれたのか忘れた。自販機の前でしばらく悩んだが結局自分の分だけ買った。そのまま戻るとうるさそうだったのでその場で飲んだ。自販機が壊れてたとか適当に嘘をつけばいいや。そう思い、再び元来た道を戻る。

階段を上っている途中、上から大きな影が差したのでふと顔を上げると何やら大きな教材を持った女子がふらふらと階段を下りてくるところだった。荷物で足元が見えないのだろう。踏み外したりしなければ良いのだがと思っている最中、ぐらりとその影が揺れた。きゃっと短く小さな悲鳴が上がった。

私は別に下心があった訳ではないし、彼女の命の恩人になりたかった訳でも、ましてや彼女の言う運命の出会いを望んでいたわけでもなかった。ただ両腕が自由に動かせる状態で階段から落ちそうな人間を助けなやつなどいるだろうか。

ふわりと彼女の髪が至近距離で揺れた。大きな音を立てて彼女の持っていた教材が階段を転がり落ちていく。それが静かな放課後の廊下に響いた。支えるため掴んだ腕はあまりにも細くて少しだけ驚いた。今どきの女子はこんなに細い腕をしているのか。こんな腕でさっきの荷物を運んでいたことにさらに驚いた。もう少し力を入れたら折れてしまいそうだとまでは言わないが、あまりにも自分と違ってどう扱っていいか分からなくなる。

「あ、ありがとうございます…」

腕の中からか細い声が聞こえて、ハッとして掴んでいた腕を放した。なんとなく気まずくて視線を落とすと上履きの色から後輩だと分かった。だからという訳ではないが「もう少し気を付けて歩いた方がいい」などと余計なことを言ってしまった。言ってしまってから柄ではなかったと後悔したが、彼女は私の偉そうな態度を別段気にする様子はなく、「はい、以後気をつけます」とハキハキと答えた。

「それじゃあ」

なんだかキラキラとした目で見つめられていたたまれなくなった私はその場から逃げるように立ち去ろうとした。あまり人と関わるのは得意ではないし、しかも相手は後輩の女子だ。一番苦手で、一番何を話していいのか分からない人種だ。長居したところで大したこと喋れないのだからいたって仕方ないのだ。そう思って踵を返そうとしたその瞬間に右手をがしりと掴まれた。当然のように、手首を掴んでいたのはその女子だった。結構な強い力で掴まれて私は少したじろいだ。これが女子の力なのか。私が非力なわけではないはずだ。

「あの、お名前は?」
「涼野風介」

それだけ答えて、もういいだろと言わんばかりに手を振り払うと意外にもあっさり離された。彼女は「すずのせんぱい」と小さく口の中で転がすように呟いた。

「君の名前は?」
「え?」
「私だけ名乗るのはおかしいだろう」
「あ、です」
「ふぅん」

自分から聞いといたくせに、あまりにも興味のなさそうな声が出た。一方的に名前を知られているのは気持ちが悪いから聞いただけであって、その名前に対して何の感動もなかった。それでも尋ねた以上、この態度は失礼だと思ったので「じゃあ、私は急ぐから」とだけ言って、結局逃げるようにしてその場を後にした。





そんな出来事があったことも忘れた数日後、「涼野ー!後輩が呼んでるぞ!」とクラスのやつに声をかけられた。わざわざ昼休みに誰が訪ねて来たのだろうと不思議に思ったが、教室のドアのところで丁度私を呼んだクラスメートの陰になってしまって誰だか分からない。わざわざ昼休みに伝えに来るような用事に心当たりもなかった。「クールなふりしてる涼野も隅に置けないねぇ」と言われた。何を言ってるんだと返そうと口を開いた瞬間、ドアの陰にいた人物が目に入ってそのまま固まってしまった。

にっこりと笑顔を見せた彼女は「涼野せんぱい」と私の名を呼んだ。普段女子とあまり話さない私はうろたえた。さらに後ろから晴矢が「おい風介、誰が呼んでたんだ?」なんて大きな声で言うものだから私は焦って、彼女の腕を掴み、廊下へ連れ出した。やましいことなど何もないのだからこんな逃げるようなことをしなくていいはずだったが、こうせずにはいられなかった。晴矢に知られたら余計な詮索をされかねない。面倒事は避けられるのならばそれに越したことはない。教室の中からは見えない場所に彼女を移動させる。

「それで、何の用だ?」
「涼野先輩、先日はありがとうございました」

そう言って彼女はぺこりと頭を下げた。わざわざ礼を言いに来るなんてなかなか礼儀正しいやつなのだろう。だが律儀すぎやしないだろうか。そんな大層なことをしたわけではない。

「大したことはしていない」
「そんなことないです!」

そう言って彼女はいきなり私の左手を掴んだ。何をされるのかと思って咄嗟に引っ込めようとしたが、彼女はそれ以上の力で私の手を引いた。予想以上にしっかりと手首を掴まれていたようだ。強引に私の手を引き出してにっこりと笑った。

「これはお礼です」

その言葉とともに手のひらに乗せられたのはピンク色の紙パックだった。一階の自販機で売っている飲み物だ。

「勝手にいちご牛乳にしちゃいましたけど、嫌だったら誰かにあげてくださいね」

言いたいことだけを一方的に告げると、彼女はくるりと方向転換をして駆けて行った。彼女が跳ねるたびにひらりと揺れるスカートを私はぼんやりと眺めていた。ここの一階で買ったであろういちご牛乳はなぜかぬるくなっていた。





そんなことがあってからよく校内でを見かけるようになった。

一番最初はもっと大人しくて素直な後輩だと思っていた。けれどもやはり人の第一印象など当てにならないらしい。ちょいちょい私の前に姿を現してはまるで嵐のように去っていく。結局晴矢やヒロトにも彼女の存在がバレた。

「懐かれてるねぇ」

と彼らはやけににやにやした顔で言う。彼女は校内で私の姿を見つけると一目散にこちらへ駆けてくる。楽しそうににこにこと笑いながら。私の隣に私の友人がいてもお構いなしだった。晴矢やヒロトと一緒にいるときにこちらへ駆けてきたときはいっそ逃げ出そうかと思った。でも「すずの先輩!」とにこにことした顔でこちらへやってくるとどうしても力が抜けてしまう。声をかけられると言っても、「こんにちは」だとか「これから移動教室ですか」だとか当たり障りのない言葉ばかりだった。大体一言二言交わすだけで終わりだ。懐かれているかどうかは分からないが、自分の態度は御世辞にも愛想がいいとは言えないものだったから、どうして彼女がやたらと自分に絡んでくるのか謎だった。

「かわいい後輩は大事にしなきゃだめだよ?」

訳知り顔で言われて少しむっとした。それじゃあまるで私がにひどいことをしているみたいじゃないか。愛想がいいとは言えないが、邪険に扱っているつもりもない。話しかけられればちゃんと返事をしてやるし、たとえそれが愛想のない返事だとしてもは常ににこにこと嬉しそうに笑っているし問題はないはずだ。

「好かれてるな」とも言われた。確かに彼女に気に入られてはいるようだ。だが、出会ってからまだ一ヶ月も経っていないし、交わす言葉も挨拶程度だ。そんな程度で好きも嫌いもないだろうと思った。

「涼野先輩、ちょっとお時間いいですか?」

だからそう言って呼び出されたときも特に何も考えずに応じた。「ついに告白されるんじゃねーの?」とからかわれたが「まさか」の一言でかわした。あれはただ新しい先輩が出来て喜んでいるだけだ。ただ、いつもは質問攻めにするくせに黙って前を歩くから少しおかしいとは思っていた。

言われるがままに彼女のあとに付いていくと人気のない渡り廊下まで連れてこられた。どこまで行くんだと思ったら不意に彼女は足を止めた。くるりとこちらを振り返って、大きく息を吸う。

「すきです!」

直球な言葉。まさかと思っていたことが現実になってしまった。教室を出る前に言われた「告白されるんじゃねーの」というからかいの言葉が思い出される。さすがに色恋沙汰に興味がないとは言え、これだけ言われれば分かる。人気のない場所で好きと言われたらそういう告白以外はありえないんじゃないか。とは言え、先程までまさかとたかをくくっていたわけだから、頭がついていかなかった。驚いて、思考が止まってしまう。こういうとき、なんて言えば良いのだっけ。とにかく何か言わなければと口を開いたがその声は完全に裏返っていた。

「か、勘違いじゃないのか」
「ちょっと助けられたくらいで惚れるような安い女じゃないですよ」

勘違いというのはちょっと配慮のない言葉だったかもしれない。は少しむっとしたような表情をして、むきになったように言う。助けられたというのはきっと最初の出会いのことを言っているのだろう。

「ちゃんと調査と観察したんです」
「調査と…?」
「観察です!」

やけに自信満々に言う。そんな胸を張って言うことではないだろうに。つまりこっそりストーカーしていたということではないのか、それは。

「さすがにバレてるかと思ったんですけど、意外と涼野先輩って鈍いんですね」

反省した様子もなく彼女は笑う。やけに私の前に姿を現すなぁとは思っていたけれど、まさかそんなことされてると考えるわけないじゃないか。私の言いたいことに気がついたのか、「あ、安心してください。大げさに言いましたが犯罪になるようなことはやってませんから」と彼女は付け足した。そういう問題でもないような気がするが。

「自分でよーく考えた結果、涼野先輩が好きだって結論に行き着いたんです」

そう言っては目をそらすことなく私の瞳を覗き込んだ。あまりにもまっすぐ見つめてくるので堪えられなくなって顔ごと背けた。それでも彼女の視線が未だ私の顔に注がれていることが痛いほど分かった。視線が刺さるというのはこういうことを言うのだろう。何か言わなければならない。そう考えれば考えるほど頭の中がすかすかになっていくようだった。からからに口が乾く。「私は―――」

「私は、君のことは後輩以上には思っていない」

そっちは私のことを一方的に調べて知っているかもしれないが、こちらはそうじゃない。思えば私はという人間を全然知らないのだ。学年がひとつ下だということは上履きの色で分かったが、じゃあ何組なのかと聞かれれば全く分からないし、誕生日も血液型も好きなものも何ひとつ知らない。それなのにどうして好きになれるだろう。そっちの方がおかしいじゃないか。

なんとなく、が今どんな顔をしているか見たくなくて、少し俯いたまま黙って彼女に背を向けた。が告白した。私が振った。それで話は終わったはずだ。昼休みももうすぐ終わる。弁当はもう食べ終わったとはいえ、次は移動教室だったからもう戻らなくてはならない。そう自分の中で言い訳をしてからここを去ろうと、一歩二歩と歩き始めた。

「涼野先輩!」

気まずくて、早くこの場を去ろうと思っていたのに、名前を呼ばれてつい振り向いてしまった。泣いてたりするだろうかと思ったが、はいつもと変わらず微笑んでいた。泣くどころかにこにこと楽しそうに笑っていた。

「今は無理でもいつか絶対振り向かせてみせますから」

そう言う声が大きくて私は柄にもなく慌てた。周りに人がいないとはいえ、ここは学校内だ。誰に聞かれるか分かったもんじゃない。黙らせなくてはと一歩へ足を踏み出すと、彼女は立てた人差し指を唇に当てた。

「だから、観念してくださいね?」

もしかしたら私はおそろしいものに目をつけられてしまったのかもしれない。