私は彼の名前を呼ぶのが好きだった。彼の後ろ姿に向かって名前を呼ぶ。一回では振り向かない。私の声に彼の半歩前を歩いていた三国先輩が先に振り返る。私は駆けながらもう一度呼ぶ。二度目から三秒後彼は立ち止まってもったいつけた動作でゆっくりと振り返る。私にとってはその時間さえも特別だった。

「南沢さん!」
「またお前か。飽きないな」

いつだって南沢さんはこのタイミングで振り返ってくれる。二回名前を呼んで三秒待ちさえすればちゃんと私を見てくれる。それが分かっているから私は安心して南沢さんを呼ぶのだ。

「そんなこと言っていいんですか?辞書ないと今日の英語の授業困るんじゃないですか?」
「あ!どうしてお前が…」
「部室に忘れてたの霧野くんが見つけてくれたんですよー」
「朝練のあと鞄の中整理したときに出してしまうの忘れたのか。全然気付かなかったな」

そう言って南沢さんは前髪を掻き上げた。キザな仕草なのに彼がやるとなんだか似合ってしまっているのがおそろしいと思う。

南沢さんは受け取った辞書をぱらぱらとめくって「いたずらはされてないみたいだな」と確認している。そうやって片手に辞書を持っている姿も絵になっているけれど、南沢さんはわざとこちらを無視しているような感じがする。お礼もまだ言われていない。なんだか南沢さんはこちらが言い出すのを待っているようなのだけれど、あいにく私には南沢さんのようにさり気なく相手から言葉を引き出す術は持っていない。

「届けたこと、褒めてください!」
「あーハイハイ、よくやった。助かったよ」

南沢さんは私の頭をポンポンと軽く叩いた。彼の言い方はおざなりだったけれど口元がちょっとだけ笑っていた。

「南沢はに懐かれてるな」

そう言って三国先輩が笑う。私が南沢さんに懐いていることは周知の事実で、三国先輩を初めとした先輩から同級生までも生暖かい目で見守られている。

「ああ、まるで子犬みたいだよ」

そう言って南沢さんは三国先輩の方を向いたまま私の頭を雑に撫でる。わしゃわしゃと、それこそ犬を撫でるみたいに。南沢さんは普段こんなことを女の子にはしない。本人曰く「髪型が崩れるとか文句言われても困るしな。その分お前は寝癖付けたまま学校来たりするからその心配はいらない」らしい。女子として見られていないのは悔しいけれど、それで南沢さんに撫でてもらえるのならたまに寝癖が付いているのも悪くないと思ってしまう。南沢さんが受験が終わるまで彼女を作らないと言っていることを知っているから余計に。

「ほら、早く戻らないと次の授業遅れるぞ」

振り返って教室の中の時計を確認すると始業の五分前だった。先輩たちは移動教室だから私が帰らなくても特別教室に行かなければならないだろう。せっかく部活以外で会えたのにもったいないなと思ってしまった。もっと休み時間の終わるギリギリまで話していたかった。

「また部活で、な?」

私が寂しそうな顔をしたのに気付いたのか、彼は私を促すように言う。本当はひとつしか年が変わらないのに南沢さんの方が私よりずっと大人びて見える。そんな人の前で子どもっぽく駄々を捏ねるような真似は出来ない。南沢さんにそう言われてしまっては私は自分の教室に帰るしかなくなってしまう。

「はい、また部活で……」

私がそう言うと南沢さんは目を細めた。この人が目を細めると本当にやさしい顔になるのが好きだった。「気を付けて帰るんだぞ」と三国先輩が私にそう声を掛けてくださると南沢さんは「三国、なんだそれ」と言って笑った。それで私への別れの挨拶は終わったらしい。そのまま南沢さんと三国先輩は歩き出してしまった。

「みなみさわさん」

呟いた声はあまりにも小さくて彼に届かないことは知っていた。それでもいつものくせでつい心の中でみっつ数えてしまう。

いち、に、さん。

南沢さんが不意に立ち止まって「ああそうだ」とわざとらしく言う声が私の耳に届いた。

「ありがとな」

南沢さんはそれだけ言って右手に持った辞書をちょっと上げて口の端を持ち上げて笑ってみせる。それから何事もなかったかのように歩き出す。三国先輩が「そういえばその辞書理科室まで持っていくのか」と言うのに対して「今さら戻ってロッカーに入れてくるのも面倒くさいしな」と答えているのが聞こえる。彼の態度は至って普通だ。多分、振り返ったのもたまたまタイミングが合ってしまっただけだ。私の声が聞こえたわけではないし、振り返ったのがちょうど三秒後だったのも偶然だ。分かっているのに、こんなちょっとしたことに特別を感じてしまって心臓がひどくうるさい。

2011.02.15