「ふぁ」と彼女がひとつあくびを落とした。

昨日夜更かしでもしたのか、それともただ単に退屈な授業に飽きてしまっただけなのか知らないが、なんだか眠そうにうとうとしている。それでも根が真面目なのか眠気と戦うかのように時々シャーペンを持ち直してはノートを取っている。眠気で文字が躍ってしまうのか何度も消しゴムを使って消しては書き直している。俺はそれを見て思わずくすりと笑ってしまう。寝まいと頑張るその姿がかわいらしく思えた。

こんなだらしなくゆるんだ口元を誰かに見られては敵わないと、窓の外を見るふりをする。外ではどこかのクラスが持久走でも始めるらしく生徒が各自で準備体操をしている。俺はそれをなんとなしに眺めながら口元を手で覆った。気を抜くと視線が彼女の方へ向いてしまう。前を向いているとカクンと揺れる頭が見えてまたくすくすと笑ってしまいそうになる。手で口元を隠していたかったけれど、それも傍から見たら不自然なので、頬杖を突いて教師に見咎められないギリギリのところまで窓側へ顔を向ける。

同じことを昨日も繰り返したような気がする。昨日の彼女は同じく数学の時間中に3回ほどあくびを繰り返していた。それを考えるとやはりこの授業が特別退屈すぎるのがいけないのだろう。他の生徒もあまり真面目に授業を聞いている様子もなく、と同じ様にうとうとしていたり女子は手紙を回していたりしていた。この授業はいつもこんな感じだ。

はまだノートと格闘しているのだろうかとそちらを見ると、目が合った。

はっきりと視線が絡み合う。は現状が理解出来なかったのかこちらを向いたまま、ぱちくりと瞬きを繰り返した。俺が視線を外さずにいると彼女は居眠りしていたところを見られたことが恥ずかしかったのか顔を赤く染めて俯いてしまう。それっきりシャーペンを握って必死でノートを取るふりをする。元々黒板にもあまり板書されていない状態なのだからそんなに写す事柄もないはずなのだけれど。

と目が合うのはこれが初めてではなかった。授業中や休み時間など目が合ったと感じることが多く、なんでこんなにと目が合うのか不思議だった。こんな風に目が合うのはだけだ。他のやつらと授業中に目があったりすることはない。まぁただ単に席が隣だという理由だけかもしれないが。と目が合うと視線がそらせなくなってしまうのだ。こんなことがあるのはこの席替えが初めてだった。その理由が分からなくて、だから気になってしまって仕方ないのだ。

そんなことを考えているとチャイムの音が高らかに鳴って、今日の最後の授業の終わりを告げた。あとは短いホームルームを終えたら部活の時間だ。俺は今まで考えていたことを頭の隅に追いやって、広げられたままほぼ白紙に近いノートをそのまま閉じて教科書と一緒に机の中に突っ込んだのだった。

 *

放課後の練習が始まってしまえば午後の授業中考えていたことなんて忘れてしまっていたくせに、練習が終わった途端にふっとあの横顔を思い出してしまった。あの真っ赤に染まった耳が気になってしまうのだ。

「円堂、ちょっといいか」

何となく隣で着替えていた円堂に話しかけてしまった。円堂に相談してどうにかなると期待しているわけでもないのに、誰かに喋ってしまいたくなったのだ。

「隣の女子と目が合う?」
「そうなんだ。最近よく目が合って、なんでだろうって思って」
「えー!そんなんオレに言われても困るよー」

「俺は風丸じゃないから分からないって」と分かるようなよく分からないような理論で丸めこまれてしまう。円堂なら何かしっくりくる答えを見つけてくれるかもしれないと思って聞いたのだが、やはり円堂にも分からなかったみたいだ。

「でもさ、目が合うってことは向こうが風丸のこと見てて、風丸もそいつのこと見てるってことだよな!」

その言葉に俺はわけもなくドキリとする。円堂は目が合うということの原理をそのまま説明しただけだ。言われなくたってお互いがお互いを見ているから視線がぶつかるなんてこと分かってる。そうじゃなきゃ目が合うわけがない。当たり前のことを言われただけなのだけれど、それがなんだかひっかかった。

「だからそれが何なんだよ?」
「だーかーらー!オレに聞かれても困るって」

円堂も深い意図があって言ったわけでもなかったらしい。それだけ言って着替えを再開させる。円堂がジャージの下を脱ぎ始めたので、俺もTシャツに手をかけた。うかうかしていると俺が着替えるの最後になってしまう。

「なんだ、そんなことも分からないのか」

この話はこれでもう終わりだと思っていたら円堂の奥から声が聞こえた。Tシャツから顔を抜いてそちらを見ると、もうすでに着替え終わりきっちり制服を着た鬼道がゴーグルの奥で笑うのが分かった。

「鬼道は分かるのか?教えてくれ」

自分でもどうして高が目が合うくらいでこんなにもやもやひっかかるのか分からないんだ。

「そこから先は風丸、自分で考えるんだな」

やたら意味ありげに会話に入ってきたくせに鬼道は答えを教えてくれない。教えてくれたっていいじゃないかと言うと「それは風丸自身が気付かないといけない」と鬼道は言う。

「円堂が言ったことがなかなか確信を突いているかもしれないな」

と鬼道はぼそりと言う。円堂が何を言ったって言うんだ。別に何も大したこと言ってないだろ。そう思うのに鬼道が言うと意味があるように思えるから不思議だ。円堂は一体何と言っただろう。先ほどのやりとりを反芻する。確か円堂は俺がを見ていてが俺を見ているから目が合うのだと、そう言ったはずだ。

「じゃあヒントだ。風丸は彼女のそんな様子を見てどう思ったんだ?」
「かわいいなと思っ…」

途中で何か変だと気が付いて語尾が尻すぼみになっていく。そんな俺を見て鬼道がまたにやりと笑う。

「ほぅ、風丸がそんなこと言うのは珍しいな」
「な?!」

そう言われて初めて気付く。もしかして、もしかしなくとも自分はものすごく恥ずかしいことを言っていたのではないだろうか。クラスの女子を何の恥ずかしげもなくかわいいと言うなんて。普段の俺では絶対にしないことだ。自分でもそう思う。「やっと気づいたか、この鈍感め」と鬼道が言う。さっきまでの自分はどうかしていたんだと思う。段々と顔に熱が集まってくるようで、思わず手の甲を口元に当てる。

「いや、これは違くて…!」
「お前は無意識だったかもしれないが円堂に説明してるときからずっとそう言っていたぞ。なぁ円堂?」
「ああ、そう言ってた!風丸が女子の話するなんて珍しいよな」
「ちょっと待て円堂」

何も分かってなさそうな表情でまっすぐ俺を見る円堂とにやにや笑いを浮かべる鬼道の視線に耐えられずに視線を外すと彼らの置くで着替えている豪炎寺が目に留まった。脱ぐために首元まで上げたユニフォームを腕から外さないまま小刻みに震えている。

「おい、豪炎寺も何こっそり笑ってるんだ。見えてるぞ!」
「なぁ豪炎寺、今度風丸のクラス行こうぜ!オレその子見てみたい!」
「そのときは是非俺も誘ってくれ。興味がある」


「お前らに話した俺がバカだった!忘れろ!」そんなことを言いながら俺は
の横顔を思い出していた。あくびをして、恥ずかしそうに頬を染めて俯く彼女。それが脳みその前の方に張り付いてしまったみたいに忘れられない。

と目が合う理由が分かった気がする。俺がをずっと見ていたからだ。俺はの横顔をかわいいと思って、それはきっと―――

「おい風丸、また顔が赤いが?」
「なんでもない!」

ワイシャツを羽織りながら、これ以上顔を見られないように右を向く。
ああ、明日からどんな顔をして授業を受ければ良いのだろう。

(2010.12.13)