「で、ここにこれを代入して―――」

退屈な授業を聞きながら、私は「ふぁ」とあくびをかみ殺す。真面目に授業を聞こうと思うのだけれど、如何せんこの数学の教師は何度も同じことを繰り返す癖があるらしく、同じような問題の解説を延々と繰り返していた。他の教師だったら一度説明したら残りの問題はさらっと流すところなのにだらだらとその先生は説明する。そんなに難しいわけではない基礎問題をひとつひとつ丁寧に説明されてはあくびも出るものだと思う。この先生は繰り返し説明することによって生徒に基礎を叩き込むことを信条としているのだろうか。握っていたシャーペンをことりと置く。周りの生徒も授業に飽きて落書きをしたりこっそり手紙を回したりしているようだった。

ちらりと横を盗み見ると隣の席の彼は頬杖をついて、外を眺めていた。外ではどこかのクラスが体育をしている声が聞こえてくる。誰か気になる人がいるのかなと思って、今どこのクラスが体育をやっているのか覗いて確認したかったけれど、あいにく窓から2番目の列に座っている私からはグラウンドは見えなかった。今日はどこかのクラスで体育があっただろうかと記憶を辿ってみるけれども思い出せない。もしかしたら1年生や3年生かもしれない。私がうんうん考えている間も彼はずっと外を見ていて視線をそらさない。一体どこのクラスが何をやっているのだろうと考えていたら、彼がふっと笑みをこぼした。授業中にこんな風に笑ったりするんだと私はドキリとして前を向く。

あんな顔をするなんて反則だと、教科書で顔を隠しながら思う。いつもはきりっとした男らしい表情をしているくせに、あんな風に急にやわらかく笑うなんてずるい。

 『風丸くんってきれいだよねー』たまたま女子トイレで他のクラスの女の子が話していた言葉を思い出した。確かにその通りで、何かに悩むように頬杖をついている風丸くんのシルエットはなんだか絵になっているように思えた。

この席になってからちらちらと隣を見てばかりいるような気がする。風丸くんと特別仲が良いというわけではない私にとってチャンスだった。けれどもかといって急激に距離が縮まるわけでもなく、そんなに頻繁に話せるわけではなかった。それでも隣の席に風丸くんがいるというだけでドキドキするし、いつもより近くで彼を見ることが出来るだけで満足だった。こういうとまるでストーカーのようだけれど、好きだから少しぐらい見てしまうのは許してほしいと思う。今だけの特権なのだから。また席替えしたら風丸くんがこんな近くにいることなんて滅多になくなるのだから。



チャイムの音が聞こえて私はハッと我に返った。ぼんやり考え事をしているうちについうとうとしてしまっていたらしい。終業の数分前に授業はもう終わったらしく教室はがやがやとしていた。ちらりと横を向くとさっきまで窓の外を眺めていたはずの風丸くんも今は後ろを向いて男子と楽しそうに話していた。

私は広げっぱなしだったノートや教科書を片付けながらちらりと隣を盗み見る。風丸くんの顔はこちらからだと前髪に隠れてよく見えないけれど、きっと笑顔なんだろう。はっきり見えないのが少しだけ残念だと思っていると教室内がなんだか少し静かになったような、違和感を感じた。視線を感じたような気がして顔を上げると、はっきりと目が合った。風丸くんの前髪で覆われている左目と視線が合ったのだ。その黒目に絡め取られたかのように私は動けなくなってしまった。

はどう思う?」
「ん、えっ?」

突然そう振られて私は慌ててしまった。ぼんやりしていたから何も話など聞いていなかった。この距離だから耳には入っていたのだろうけれど、全く別のことを考えていた。それに急に話しかけられて記憶をすっぽり落としてしまったかのように何も考えられなくなってしまった。ずっと見ていたことを咎められたのかと思ったのだ。そんな風に慌てる私を見て、風丸くんはくすりと小さく笑った。ああ、風丸くんの笑顔だなぁと思っていると斜めから声が掛けられる。風丸くんと話していた男子だ。それで私はようやく我に返った。

「数学のあの先生最近テレビに出るようになった芸人に似てるって話してたんだけど、名前が思い出せないんだよー」
「あ、ごめん。分かんない」
「だよなー。あの芸人もまだそんなに売れてるってわけじゃないしなー」
「そんなに似てるの?」
「結構似てる!なぁ風丸思い出してくれよー。お前だけが頼りなんだ」

そう言って彼は風丸くんの方へ顔を向けた。私もつられて見ると、彼は少し困ったような表情をしていた。

「だから俺もテレビで1、2回ちらりと見ただけで名前までは…」
「うおおお風丸うううううう!」
「そんな風に叫ばれたって思い出せないものは無理だからな」

「俺はそれが気になって午後の授業なんか集中出来ない!」と喚いているのを横目に、風丸くんはすっと立ち上がる。ああ、折角風丸くんと喋るチャンスだったのに会話が終わってしまった。もしここで私がそのお笑い芸人を知っていたら話も盛り上がっていたのかもしれないのに、惜しいことをしてしまった。そう思いながら彼の動きを目で追っていると、すっと彼が近付いてきて肩にぽんと手を乗せられた。

「ごめん、何度か目が合ったと思って調子乗った」

小さな声でそう言った。きっと今の声はこの騒がしい教室の中では私にしか聞こえなかっただろう。驚いて彼の表情を見ようとしたけれども、彼の前髪の陰になって確認できなかった。そのまま風丸くんは何事もなかったかのように行ってしまう。どうして、風丸くんがあんなことを言ったのかは分からない。何度か目が合ったっていつ?調子乗ったってどういうこと?

「風丸くん!」

名前を呼んで呼び止めようとしたけれども彼は少しこちらへ振り向いて、髪の奥でふわりと笑っただけだった。聞きたいことはたくさんあったのに、その横顔に全部誤魔化されてしまった。

(2010.11.30)