放課後、一度家に帰って制服を着替えてから本屋に行った帰りだった。ふと視界の隅に動くものを見つけてそちらを見ると、土手の下で人がひとりサッカーボールを蹴っていた。私はその姿に見覚えがあって、思わず足を止めた。

その人物の動きはとても速くて、ボールも足の先にくっついているみたいに自在に操っている。長い髪が動きに合わせて揺れて。私はついその動きに見とれてしまった。自分では考えられない動き。その彼の右足が大きく振られるとボールがきれいにゴールの網を揺らした。

「風丸くんかっこいい」

それは小さな呟きにしてだすつもりだったのに、興奮してつい思いのほか大きな声を出してしまった。それは人気のないこの場所に響いてしまって、しまったと思ったときには彼がじっとこちらを見ていた。

「あ、えっと」

何とか誤魔化そうとしてみてもいい言葉が浮かんでこない。後ろを振り返ってみても私以外は誰もいなくて、彼が私を見ていることは明白だった。ボールを手に持ってこちらを見る風丸くんがどんな表情をしているかまではこの距離では判断出来ないけれど、きっと、なんだあいつはと怪訝に思われているに違いない。しかも、全く赤の他人ならいい。私と風丸くんはクラスメイトでお互い顔も名前も知っているのだ。毎日教室で顔を合わせている。ああ、私は明日どんな顔をして教室に入ればいいのだろう。なんとかこの場から逃げられないだろうか。そう考えているうちに風丸くんがボールを置いて、ずんずんとこちらへ近付いてくるものだから、私はすっかり逃げるタイミングを失ってしまった。地面に根が生えたみたいに動けなくて、とりあえず「あはは」と引きつった愛想笑いを浮かべてみた。こんなへたくそな笑顔でこの場をどうにか切り抜けられるとは到底思えなかった。



と近付いてきた彼は私の名前を呼んだ。名前も顔も把握されてしまっている。風丸くんはまっすぐ視線をはずさないまま、私の目の前で歩みを止めた。もう、逃げられない。

「走るの速いね」

とっさに出てきたのはそんな言葉だった。ごまかしも何もさっき思ったままの言葉だ。まったく頭が働かなくて、そんな幼稚な言葉しか出てこなかった。風丸くんが速いのは最初から分かっていたことじゃないか。陸上部で、走るの得意だって知っていたじゃないか。そうじゃなくて、

「サッカーもうまい」

サッカーをする風丸くんをちゃんと見たのは初めてだった。陸上だけじゃなくて、サッカーもすごくうまい。改めて風丸くんはすごいなぁと思ったのだ。拙い言葉でそれを伝えると風丸くんはちょっとだけ表情をゆるめた。

「俺よりもっとすごいやつはいる。俺なんてまだまだだよ」
「でも私はかっこいいと思ったよ」

私がそう言うと風丸くんは一瞬目を大きく見開いた。いつもより大きな瞳に見つめられて。そうかと思うと、突然彼は右腕で頭をかかえてへなへなと座り込んでしまった。

「ご、ごめん!変なこと言った?」

こんな風丸くんなんて見たことなくて、私は何かとても失礼なことを言ってしまったのではないかと慌てた。サッカーに詳しくない私なんかにそんなこと言われても嬉しくねーよとか、かっこいいとかかっこ悪いとかそういう問題じゃないとか、そんな風に風丸くんは気分を害してしまったのかもしれない。風丸くんの顔を覗き込もうとすると「そうじゃない」とくぐもった声がした。

「そういうこと言われると、照れる」

聞き間違えかと思った。風丸くんが照れる?風丸くんは陸上部時代から人気で、黄色い声援には慣れているはずなのに。さらに言えば風丸くんはそういう黄色い声をあまり気にしていないようだったから、この反応は意外だった。

「えっと、風丸くんでも照れたりするんだ?」
「そりゃあ、するさ」

そう言って風丸くんは視線を上げてこちらを見た。腕と彼の髪の隙間から見える右目が私を捉える。目が合った瞬間ドキリと心臓が跳ねた。風丸くんの視線は鋭くて、私は彼と目が合うたびにいつもドキリとしてしまう。それでも風丸くんが睨んでいるわけではないことは分かるので怖かったり不愉快になったりすることはないのだけれど、ただ体が強張って動けなくなってしまうのだった。今日は特に、風丸くんが下から覗き込むというあまりない状況だからか心臓がうるさい。

「そ、それは意外だった」

声を振り絞って正直な気持ちを言うと彼は「はぁ」と溜息を吐いて、疲れていたのかそのままごろんと土手に横になってしまった。覗き込むと先ほどまで私を動けなくしていた瞳は閉じられていた。いつも少しだけ力が入れられている眉間も今はゆるめられているようだった。

汗で髪が張り付いていて、風丸くんでも汗かいたりするんだと当たり前のことを思った。隠れてる左目を見えるように前髪を掻き分けるとがしりと手首を掴まれた。風丸くんの両目がぱちりと開く。いつも片目が隠れているから、風丸くんの両目をはっきり見れる機会なんてめったになくて、普段の二倍ドキリとした。ドキリドキリ。掴まれた手があつい。

「どうして俺がこんなになってるか、分かる?」

今さら風丸くんの前髪をどかしてしまったことを後悔した。両目でまっすぐ見られると心臓が耐えられなくなってしまいそうだった。目を逸らしたかったけどやっぱり金縛りにあったみたいに動けなくなってしまっていた。

「分からない、です」
「うん、分からなくていいよ」

そう言って風丸くんは私から視線を外した。私もなんとなく、彼から視線を外して、足元の草を見る。とっさに分からないと答えたけれど、私はその答えを知っているかもしれなかった。それはきっと私が風丸くんと目が合うと体が動かなくなってしまうことと似ているのではないかと思った。そして、きっと掴まれたままの腕とも関係しているに違いない。

瞬きの隙間