彼はやさしい人だ。

「影山くん、昨日はありがとう。このハンカチきちんと洗ってアイロンかけたから」「えっ、そこまでしなくても良かったのに」「本当にありがとう」「それよりも擦りむいたとこ大丈夫?痛くない?」「ちゃんと消毒したし大丈夫だよー」

教室から廊下に出たときに聞こえたのは影山くんと女の子が喋っている声だった。ああ、怪我をすればやさしい影山くんに心配してもらえて、さらにはハンカチまで貸してもらえて喋るきっかけが出来るのか。そんなことを考えていたから多分罰が当たったのだ。

体育の授業中、ぼーっとしていたら足を捻ってしまった。派手に転けたので体育の先生の指示で授業を抜け、クラスの保健委員の子に付き添ってもらって保健室で養護の先生に手当をしてもらった。保健委員の子にはとても心配され、養護の先生には「今日は一日あまり動き回らないこと」と言われてしまった。骨に異常はないだろうとのことだったが、腫れが引かないようだったら病院に行くようにとも言われ怖くなったけれど、部活に出ても良いかを聞くと「激しい運動はダメ。見学するくらいなら可」とのことだったので勝手にマネージャーの仕事も可と解釈することにした。

葵ちゃんと音無先生にだけは事情を話して座ったまま出来る仕事を回してもらった。ふたりとも「無理しない方が…」と言ってくれたけれども私としては部活に出ている方が気が楽だと説明すると納得してくれた。テーピングしてあるから歩かなければ痛くないのだ。

「じゃあ、ちゃんよろしくね。あとで取りに来るから」

そう言って葵ちゃんが部室棟からグラウンドへ行ってしまったのが30分前。頼まれた仕事も終わってしまって、することもなく部室の片付けを始めてみたけれど意外とこの部室は綺麗だったりする。部員のロッカーの中までは分からないけれど、名門雷門中サッカー部となれば神聖な部室を汚すことなんて許されないのだろう。ちょこっと整理しただけでやることがなくなってしまった。

結局再び椅子に戻るしかなかった。机の上にあるバインダーに視線を落とすが、何度見なおしてもそこに書き込むべきものは先程全て書いてしまった。葵ちゃんのいるグラウンドまで持って行こうかと思ったけれどあとで取りに来ると言うからにはまだ必要がないものなのだろう。下手に歩いては葵ちゃんに怒られてしまうかもしれないし、怪我を長引かせる原因になるかもしれないと思うとどんなに暇であっても動けなかった。

「はぁ」とため息を吐いてバインダーを置こうとするとバンと大きな音がした。驚いて後ろを見ると後ろのドアが大きく開いていて、少し息を弾ませた影山くんが立っていた。

「あ、さん」
「影山くん、どうしたの?」
「今日中に担任の先生に出さなきゃいけない紙があったのを忘れちゃってて」

そう言って影山くんはロッカーを開けて鞄の中を漁り始めた。意外と鞄の中は適当にプリントが突っ込まれているらしく探すのに苦労しているようだった。「ああ、あったあった」と顔を上げた影山くんと目が合う。

「足の怪我大丈夫?」

ドキリとした。あまりにも唐突な尋ね方だったから、影山くんにすべて見透かされているような気がした。私が足を捻ったことも、その理由も全部知られているような気がした。

「……葵ちゃんから聞いたの?」
「えっ、空野さん?何も聞いてないけど」
「……どうして分かったの?」
「いつも練習中もあちこち動きまわってるさんが今日はずっと座ってたから」

いつもより来るの遅かったし。そう言って影山くんはちょっと笑ってみせる。そんな風に気付かれるとは思わなかった。水鳥さんだって茜さんだって葵ちゃんが上手く誤魔化してくれたからまだ私の怪我に気付いていないだろう。他の部員だって誰一人知らないはずだ。

「大丈夫、皆には言わないよ」

影山くんが、やさしいからだろうか。やさしい彼は他人の不調に敏感なのかもしれない。こんな風にしてあの女の子の怪我にも気付いたのかもしれない。

「いつ怪我したの?」
「今日の体育の時間に……」
「じゃあ保健室にはもう行ったんだよね。かなり痛むの?」
「……うん」

ちょっとだけ、ほんの少しだけ影山くんが心配してくれたらいいなと思った。あの女の子にしたみたいに、心配してもらえたらと思ってしまった私はやっぱり悪い子かもしれない。

「そっか。じゃあ帰りさんの荷物僕が持つよ!」
「えっ、いいよ、悪いよ!」

影山くんの突然の申し出に私は目を丸くさせた。心配されたいと思ってはいたが、さすがにそこまでしてもらうことなんて出来ない。そもそも私と影山くんの家の方向が一緒かさえも分からない。いくらやさしいからと言ってそこまでしてもらうわけにはいかない。ほんのちょっと心に留めてもらえたらいいな、ほんの少しでも私のことを考えてもらえたらいいなと思っただけだ。本当は、一緒に帰れたら嬉しいけれども。

「あ、それ、このあとキャプテンのところに持っていくやつ?」
「そうだけど……」
「じゃあ、ついでに持ってっちゃうね」

「じゃあ帰り待っててね」そう言って影山くんは私の手からバインダーを取るとすぐに駆けて行ってしまった。

歩けないわけでもあるまいし、怪我したのは手ではなく足だから自分の荷物くらい普通に持てる。どうしても痛いのだったら途中までバスを使って帰ったらいい。それなのに、はっきり断れないのはきっと私が影山くんに望んでいるからだ。


もっとずっとやさしくして