夏が終わると陽の暮れるのが一気に早くなるような気がする。授業が終わり、放課後に図書室で受験勉強をしていればすぐに時間が経ってしまう。夏休みが明けて以降時間が過ぎるのが随分と早くなった。それは大学受験までのカウントダウンが本格的に始まったからなのか、高校生活の残りが見えるようになったからなのか。気を抜くとじりじりと迫り来る焦りを忘れようと予備校のない日は学校に残って勉強することにしたのだが案外学校の図書室は閉まるのが早い。これだったら予備校の自習室に行った方が良かったかとも思ったけれど、体育館の脇を通ったときにボールの弾む音が聞こえてくるとやっぱり学校で勉強するのも悪くないと思えてくるのだ。

けれども今日は体育館からボールの音もバスケットシューズの擦れる音も聞こえない。

いつもなら図書室が閉館したらすぐに帰るのに下校時刻間際になって何度解説を読んでも解けない問題に出会ってしまった。分からないまま帰るのが嫌だったので先生のところに聞きに行っていたらいつも以上に帰りが遅くなってしまった。とっくに最終下校時刻は過ぎていて体育館もすでに電気が落とされている。ああ、バスケ部の練習ももう終わってしまったのだなぁと少し寂しい気持ちになる。

サンじゃないっすか!」

校門を通り過ぎようとしていると後ろからそう私を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると高尾くんがぶんぶんとこちらに向かって手を振っていた。

「高尾くんは今帰り?」
「そっすよ! サンは今日も図書室?」
「気が付いたらこんな時間になっちゃって」
「それで遅くなったついでに真ちゃん待ってたってわけかー」

そう言って高尾くんは私の顔を覗きこんでにやにやと笑う。誰を待っていたとも言っていないのにこの明るくて皆のムードメーカーである後輩には私の気持ちなどとっくにバレバレらしい。本当に待っていたわけではないので否定しようと思ったのだけれど、緑間くんに会いたいと思っていたのは事実だったので黙って俯く。結局想いがバレてしまっているのだからどっちだって同じだろう。

「真ちゃんならすぐ来ると思うから」

高尾くんはなんだかんだで私を応援してくれている。緑間くんのバスケの相棒である彼に協力してもらえるのはとてもありがたい。なんたって私と緑間くんはただでさえ三年と一年で接点が少ないのだから。

「高尾、こんなところで何をしている」

高尾くんの後ろからずっと待っていた声がした。相変わらずちょっと不機嫌そうな声だ。でも私はもうこれが彼の普段の声のトーンであることを知っている。高尾くんの陰から顔を出して「緑間くんお疲れさま」と声をかければ「いたのか」と言われる。

「今帰りでちょうど高尾くんに会ったところでね」

聞かれてもいないのにぺらぺらと喋り出す。そうでもしないと浮き足立った心はそのままふわふわ飛んでいってしまいそうだった。多分高尾くんには全部お見通しなんだろうなぁと思いながらも平静を保つことが出来ない。緑間くんを前にすると私の心臓は勝手にドキドキと鳴るようになってしまった。

「わり、真ちゃんオレ急用出来た! ってわけでサンと歩いて帰ってよ」

そう言って高尾くんが私の肩をぽんぽんと叩いた。何を言っているんだと慌てて高尾くんを見上げると相変わらず読めない笑みを顔面に張り付けていた。彼の考えは読めないと諦めて緑間くんの方を確認すると眉間のシワが先程よりも深くなっていた。

「えー、真ちゃんまさかこんな暗い中サンをひとりで歩いて帰らせる気ー?」
「あの、高尾くん私別にひとりでも……」

大丈夫と言いかけた言葉は高尾くんの手に塞がれて外に出なかった。高尾くんは相変わらず楽しそうな笑顔のままで、緑間くんはそんな高尾くんを睨んでいる。

「駅まで一緒に帰ってあげなよ」

いつの間にか高尾くんの手は私の口から離れていたけれどももうどうにでもなれという気持ちが強くなって黙っていた。

「最近変質者とか出るらしいじゃん。先生も言ってたし? 何だっけ、隣のクラスのテニス部の子が被害にあったとか」
「……高尾、こんなところで時間を食って急用とやらは大丈夫なのか」
「あーそうそう! それどころじゃなかったわー」

高尾くんは白々しく言うと最後に「んじゃサン、真ちゃんをよろしくねー」とだけ残して帰ってしまった。逃げるのだけは早い。あっという間に高尾くんの姿が見えなくなって、その場には私と緑間くんだけが残された。

「えっと、帰ろっか」

私がおずおずと切り出すと緑間くんはこくりとひとつ頷いて歩き出す。気を遣ってくれた高尾くんには申し訳ないがやはり気まずい。これでは意識してしまって隣を歩くことさえもままならない。ぎこちなく私が最初の一歩を踏み出すと緑間くんもそれに倣う。私の方が先に歩き出したはずなのに緑間くんの一歩は大きくてすぐに追い越されてしまう。

「こんな時間まで残って勉強か」
「家だとなかなか勉強する気が起きないから」

ぽつりぽつりと話すけれども、すぐに会話は途切れてしまう。いつもそうだ。せめて高尾くんを混ぜて三人でなら普通にお喋り出来るのに、緑間くんとふたりきりになると何を話していいか分からなくなってしまう。私は三年生で、彼は一年生。特別共通の話題もないし、本来ならば接点もなく卒業していただろうと思う。私が緑間くんを好きにならなかったら多分きっとこんな風に一緒に帰ったりしなかった。

緑間くんとは身長が随分違うからかお互いに歩くペースを意識しないとどんどん私が置いていかれてしまう。緑間くんの背中をこっそり追いかけるのは嫌いじゃない。彼の大きな背中を眺めているだけで胸がいっぱいになる。そのくせあと少ししか緑間くんを見れないことがとても残念に思う。私は大概わがままだ。

「おい!」

緑間くんの声がとても近くから聞こえたかと思うと突然強く腕を引かれた。今まで緑間くんに腕を掴まれたことなんて一度もなかったものだからびっくりして足を止めると数センチ横を自転車がチリンチリンとベルを鳴らしながら通っていったのでさらに驚いた。このまま歩き続けていたら確実にぶつかっていただろう。

「まったく、危なっかしいのだよ」

緑間くんが「はあ」と溜め息をひとつ吐く。その仕草さえもうつくしいと思ってしまう私は相当の重症だ。私の腕を掴んでいた緑間くんの手はいつの間にか離れていた。緑間くんも必死だったのか、割合と強い力で握られた腕はいまだ彼の手のひらの感触を残している。

「どこを見て歩いている」

そう言って緑間くんは軽く私の顔を覗きこむ。彼の瞳はとても澄んでいてきれいだ。緑間くんは一体どこを見て、どんな世界を見ているのか逆に私が知りたい。緑間くんの背は私よりもずっとずっと高くて、それだけでも見える世界は違うだろうに、このきれいな瞳はどんな風に景色を映すのか。

「ちゃんと前見て歩いてるよ」

そう言ってへらりと笑って見せると緑間くんはすっと視線を外して「気をつけろ」とだけ言う。もっと緑間くんの瞳を真っ正面から見ていたかったのだけれど彼は私に合わせて屈めていた腰を元に戻してしまう。そうして彼よりも随分と下方にある私の頭をぐりぐりと撫でる。撫でるというよりはただ髪を乱しただけと言った方が正しいかもしれない。緑間くんは不器用だ。

「私の方がお姉さんなのになぁ」

自分で言った言葉のくせに傷つく。もう二年遅く生まれていれば良かった。そうすれば一緒に卒業できるし、もしかしたら同じクラスで、隣の席に座って授業を受けられたかもしれない。そうでなければ彼の後輩になりたかった。緑間くんが卒業してしまっても、こっそり追って同じ大学に通えたかもしれない。もしもの仮定はいくら考えても尽きない。

「そんなの、関係ないのだよ」

緑間くんがそう返すのは自然なことで、予測できたはずなのに、思考を読まれたかのように勘違いして私の心臓はドキリと鳴った。

「危なっかしくてむしろ年下のように思える」
「ひどい!」

いつもの調子が少しずつ戻ってくる。高尾くんを交えているときと同じように受け答えられてるはずだ。高尾くんも緑間くんもあまり私を先輩だと思っていないようでいつもこうしてからかってくる。確かに私は年上の威厳も、落ち着きもないのは事実なのだけれど。

「それに、とてもちいさい」

緑間くんが眼鏡の奥で目を細めたのが見えた。その瞳を見た瞬間、言葉が詰まってしまった。『緑間くんに比べたら大抵の人の手は小さいよ』と言おうと思っていたのに。こんな風に右手を左手で掬われてしまったら、緑間くんの大きな両手で包まれてしまったら、何も言えなくなってしまう。緑間くんは手もとてもきれいだ。

「行くぞ」

そう言って緑間くんは私の手を離すとすぐに背を向けて歩き出した。ぼんやりしていると私はどんどん緑間くんから置いていかれてしまう。それなのに緑間くんは時折ちらりと振り返ってくれる。私が追いつくまで歩みを止めていてはくれなくて、依然距離は縮まらないのに、緑間くんが私を待ってくれるという事実が嬉しくて私はまたへにゃりと笑う。

「緑間くん待って」と背中に向かって言えば、また止まってちらりちらりとこちらを振り返ってくれる。そういう彼の垣間見せるやさしさのひとつひとつが嬉しくて、彼に恋をしていて良かったなぁなんて思うのだ。

2012.10.11