益田龍一は消えてしまった。

益田龍一というのは私の恋人である。恋人だったと言った方が正しいだろうか。消えてしまったのだから。消えたと言っても私が見ている目の前で煙のように散ってしまった訳でもないし、死んでしまった訳でもない。ただ私が彼の消息を知らないだけなのだ。きっと彼はどこかでぴんぴんしているのだろう。例え彼が刑事で一般人よりも危険な職種に就いていたとしても、何か大事件に巻き込まれたという可能性はないだろう。何しろ彼はきちんと警察を辞しているのだ。何か危険な事件に巻き込まれたのだとしたらそんなことする暇などないだろう。全く用意周到なものだ。しばらく連絡がないと不審に思って彼の職場、つまり警察なのだが、そこに行って初めて彼が刑事を辞めていることを知ったのだ。慌てて彼が住んでた場所に行ってみると、案の定そこは空っぽだった。

ああ、置いていかれたんだなぁと思った。

捨てられた、とは思いたくなかった。『捨てられた』も『置いていかれた』も同じことかもしれないけれど。何が違うと聞かれても私には明確な違いなど説明出来るはずもなかったが、私の中では『置いていかれた』なのだ。彼がここにいなくて、私がここにいる。それだけのことなのに。

分かる限りの彼の友人関係をあたって、ようやく彼の消息に関する情報らしきものを掴んだ。

なんでも益田龍一は、上京すると言っていたらしい。

だから何だと言うのだ。これだけの情報では彼の居場所など特定出来るわけがなかった。東京は広い。警察を辞めて、上京して、彼はどうするつもりだったのだろう。働く当てがあったのだろうかと、そちらも聞き込みをしてみたが、該当する彼の親類、友人、知人は見つけられなかった。このままでは迷宮入りである。ああ、私はどうして警察を辞めてしまった彼の代わりのように刑事の真似事らしきことをしているのだろう。まったくもって馬鹿らしい。

それでも、刑事でもなんでもない私が彼の居場所をつきとめることができたのは奇跡に近かったのだろう。私は偶々それを知って、そうして今この薔薇十字探偵社と書かれた扉の前に立っている。情報がガセということもあるだろう。しばらく逡巡したが、意を決して扉に手をかけた。箱の中身は開けるまで確定しないのだ。カランカランと鐘が鳴った。

中にひとりの男が立っていた。

「あれ、お客さんですか?今日は約束はなかったはずだけどなぁ」

と振り向いた。懐かしい顔だった。益田さん。益田さん。名前を呼びたかったのに、私の口は声を発するどころか、「ま」の形にすらならなかった。ぼーっと扉の前に突っ立っているだけで精一杯だった。うっかり気を抜いたらその場で座り込んでしまったかもしれない。

「え…、さん?!」

何でこんなところに、と続ける。驚愕した顔。その間抜け面が憎らしく思えて、頬を思い切り叩いてやろうと右手を振り上げたのだけれど、その手は勢いを失って、最終的には彼のシャツを掴んだだけだった。

「益田さん、どこ行ってたんですか」

彼に会って私の中に溢れた感情は『私を置いていった男が憎い』ではなく、『愛しい』だった。私はつまり、寂しかったのだ。普段大した行動力のない私が消えた彼を追って上京までしたのは単に寂しかったからだ。もう一度会いたかったからだ。

さんにまた会うなんて思ってもみなかった」

そんな私の心情を知ってか知らずか、彼はしみじみ言った。久しぶりに見た彼は私が覚えている姿と変わらなかった。前髪は少し伸びたかもしれない。

「私は、益田さんに会いたかった」

迷惑だったかもしれない。私のこと嫌いになって、これを機に関係をすっぱり絶ちたかったのかもしれない。けれども私は追いかけてしまったから、目の前にいる女を疎ましく思っているかもしれない。

「なんで私を置いてったんですか」

それだけを言うので精一杯だった。つい責めるような口調になってしまった。もちろん怒ってはいるのだけれど、そうじゃなくて。他にも聞きたいことは沢山あったのだ。でも口はひとつしかない、それが惜しまれる。しかも、声が震えている。なんて情けない。

「だってさん、警察官と結婚したいってかねがね言ってたじゃないですか」

僕ァ警察辞めちまいましたからね、もう遠子さんに相応しい男じゃないんです。どうせ振られるならと、何も言わず逃げてきたんですが、見つかっちゃいましたか。そう言って益田は自らを卑下するように笑った。

「何を、言ってるんですか…」

私には彼の言う意味が分からなかった。どうしてそんなことになるんだ。私は益田が刑事だったから警察官と結婚したいなどと言ったのだ。私の夢は誰か警察官と結婚することではなく、益田龍一と結婚したかったのだ。彼が警察官だったからそういう表現をしたにすぎないのに。それに、一体それをどこで聞いたというのか。確かに私はそれを言った覚えがあるのだから彼を責めることなど出来ないのだけれど。

「公務員から一転、探偵なんていかがわしい職に就いたんですから、愛想尽かされても仕方ないかなぁと」
「一体いつ私が益田さんに愛想尽かしたなんて言ったんですか」
「いやぁ、それはそのうち」
「そうですね、益田さんがそう言うなら愛想尽かします。お邪魔しました!」

そう強く言ったものの、掴んだ手を離さなかったのだから笑える。お邪魔しましたと別れの言葉を言いながらも離さなかったのだ。私の右手は彼のシャツしっかり握り締めていた。もう離すもんかと言うような強い力で。彼の笑う声が聞こえた。頭に彼の手が乗って、静かに髪を梳かれる。こうして触れられるのも一体いつぶりだろう。

「僕ァ何やら大きな勘違いをしていたようだ」
「そうですよ、益田さんは大馬鹿者です」

彼は「ひどい言い方だなぁ」と笑った。「ただ、さんに嫌われるのが怖かっただけです。嫌いって言われるのが怖くて逃げたんです」卑怯者なんですよ、とも言う。

「そうです、益田さんはずるいです」

嫌いなんて言えるはずがなかった。「本当に悪かったと思っています。でも、今はさんがこうして探しに来てくれたことが嬉しくて仕方ない」ああ、なんてずるい人。