「そっちじゃない、こっちだ」

 そう言って鯉登さんは私の手をぎゅっと掴んだ。『ぎゃあああ』と叫びたいくらいだったが、喉が声の出し方を忘れてしまったらしい。息を吸い込むので精一杯だった。

「貴様はあっちへふらふら、こっちへふらふら、危なっかしくて仕方ない。物珍しいのは分かるが、あんまり離れるとまた迷子になるぞ」

 前を歩く鯉登さんは私に説教を続ける。きっと彼は私の手を握っていることを忘れているか、それともまったく意識をしていないかのどちらかだ。
 普段から女として見られていないことは分かっていた。彼とは言い合いもよくするし、私はお淑やかな女性とは程遠いから。良くて、おてんばな妹分だ。他がしっかりした人が多いからか、やたら私の世話を焼いて年上ぶっている。

「この間も、私が迷子になりかけたところを見つけてやったことを忘れたのか?」

 忘れるわけがない。あのときは、通りの店から漂う良い匂いに気を取られた一瞬のうちに皆の姿が見えなくなってしまった。心細さと不安でいっぱいになっているところに、彼が走ってやってきて私の名前を呼んでくれたのだ。そのときの彼の必死な表情と、泣きたいほど安堵した気持ちは今もまだ鮮明に思い出せる。
 ――こうやって何度も心のやわらかいところに触れられて、好きにならない方がおかしい。
 私がいくらおてんばで気の強い性格だといっても、好きな人に手を握られて平気でいられるわけがなかった。ドキドキと心臓が胸を突き破ってしまいそうなくらい大きく鳴っている。

「おい、分かったら返事くらい――」

 そう言いながら彼がこちらを振り向いた。慌てて俯いたけれども、それすらも不自然に見えたのだろう。彼が歩みを止める。
 彼がこちらを覗き込もうとしているのが気配で分かった。そのせいで、距離がすごく近いことも。

「どうした? 熱でもあるのか?」

 多分、今の私は耳まで真っ赤なのだろう。普段だったら一に対して十言い返す私が黙ったままなので、体調が悪いと勘違いしている。バレなくて良かったと、彼の鈍感さに感謝するべきところだったが、何故だか今日の私はそれにムカムカしてしまった。何も知らないでいる彼を困らせてやりたい、と。

「手、いつまで握ってるつもりですか……」

 もっと、いつもみたいに語気を強めて言おうと思っていたのに、出てきたのは弱々しく掠れた声だった。

「〜〜っ!」

 鯉登さんが言葉にならない声で叫んで、パッと手を離す。そのあとも何か言っていたが、私には全く聞き取れなかった。「キエエ!」という叫びも全部無視する。真っ赤になって、慌てて――そんな彼を見ると、どこか心が満たされる。

「さぁ、早く皆のところへ行きましょう!」

 今度は私から彼の手首を掴んで引っ張ると、彼の体がビクリと震えた。多分少し浮き上がったと思う。彼がキッと睨んでくるけれども、それも真っ赤な顔では怖くなかった。

2022.11.12