朝は散歩がてら公園を通って歩くのが私の日課だった。出社時間より随分と早い時間に家を出てゆっくりと公園を歩く。我ながら健康的な日課だと気に入っているのだけれど、本当はそれ以外にも目的があって、休日の日にも無駄にベンチに座って公園の景色を眺めたりもする。それが今の私だ。

もうすぐ時間だなと腕時計を確認していると、向こうからワンと元気の良い犬の鳴き声が聞こえてくる。私はベンチから素早くベンチから立ち上がって、髪を慌てて撫で付けた。家を出る前に念入りに寝ぐせが付いていないかチェックは済ませてきたのだけれどそれでも気になるものは気になる。

その人は毎朝愛犬の散歩のためにここを通る。最初はかわいいゴールデンレトリバーだなぁと思って見ていただけだったのだけれど、いつの間にかその飼い主にまで興味を持つようになってしまった。本当に最初はかわいいわんちゃんの飼い主としか思っていなかった。けれど、なんとなく視界に入る彼を見ていると子どもたちと遊んであげたり、お年寄りに声を掛けたり時には彼らが困っていれば助けてあげたりしている姿が印象に残るようになった。ちょっと見ただけで分かる好青年なのだ。

好きとかそういうのではなくて、ちょっと気になる。それは彼が好青年だからだ、と言い聞かせながら歩く。あんな絵に書いたような好青年を見たら誰だって良い感情を持つに決まっているのだ。

彼は犬を連れて歩きながら、道行く人に挨拶をする。散歩中のお年寄りとか、学校へ行く途中の子どもだとか。その姿はまるでヒーローのようだと思う。私は一応ヒーローが所属する会社の社員ではあるけれども下っ端の下っ端なので素顔なんて全く知らない。正直ヒーローのプライベートなんて想像出来なかったけれどもヒーローの素顔ってこんななのかな、と想像する。

もし私が犬を飼っていたら『かわいいわんちゃんですね』なんて犬のお散歩仲間として気軽に声をかけられたかもしれないけれど、マンション暮らしの私には無理な相談だった。

結局声を掛ける言葉が見つからないまま彼が段々近づいてくる。顔整ってるなぁと思うけれども、あんまり見ていると不審に思われるので俯く。それがいけなかったのだろうか、ワンとすごく近くで犬の鳴き声が聞こえると思って顔を上げるとふさふさの毛が目の前にあって、「え?」と疑問の声を出す前にそのふさふさが私にのしかかってきた。反応が遅れてそのまま犬と一緒に後ろに倒れこむ。

「うわあ!」

思わず可愛くない悲鳴を上げてしまった。そのわんちゃんはずっしりと私の上に乗っかって何やら楽しそうな表情をしている。きっとこの子はじゃれてるつもりなんだろうなぁと思いながら首の下を撫でてやっているとぐいとわんちゃんの首輪が引かれるのが見えて、その犬は私の上からいなくなった。

「すまない。そしてすまない!怪我はないかい?」

顔を上げると例の彼の大層慌てたような表情があった。バクバクと心臓がうるさかった。そうださっきのわんちゃんはこの人のゴールデンレトリバーだったと、私はあまり働かない頭で思い出した。彼は至極申し訳なさそうに眉を下げて私に手を伸ばした。ほぼ反射でその手を取ると大きな手が軽々と私を引き起こしてしまった。

「肘を少し擦りむいているね。洗ったほうがいい。いや、今ハンカチを濡らしてこよう」

そう言って彼は近くのベンチまで私を引っ張っていって無理矢理座らせた。そのまま公園の水飲み場まで行くと尻ポケットからハンカチを取り出して濡らして戻ってくるのを私は木陰でぼーっとしながら見ていた。

これは一体どういうことだろう。さっきまでどうやって話しかけようか悩んでいた人物が私を心配してくれている。彼の飼い犬にじゃれつかれるなんて夢じゃないのか。こんな都合のいいことが現実にあるなんて。

「本当にすまない」

彼は戻ってくるとそう言って私の肘にハンカチを当てようとした彼に自分で出来ますと告げてハンカチを受け取る。綺麗なハンカチを汚してしまうのは申し訳なかったけれど、ここで断るのも悪い気がしたのでありがたく使わせていただく。彼は私がハンカチを使うのを見ると満足そうな表情をして私の隣に腰掛けた。とても表情の豊かな人だと思う。

「出社時間は大丈夫かい?ここから会社まで十分はかかるが」

確かに出社するには遅い時間だった。そしていつもここを通るだけの私のことを彼が覚えていることに驚いた。けれども彼は毎日この公園に散歩に来ているのだから、よく会う人を覚えていても不思議ではないだろう。私だっていつも見かけるおじいちゃんの顔とか、この道を通学路にしている高校生の顔なんかは覚えている。

「今日は休みなんです」
「そうか、それなら良かった」

そう言って彼は白い歯を見せて爽やかに笑った。ドキリと心臓が音を立てた。こんな近くで、こんな真っ直ぐに彼の顔を見たのは初めてだった。

「君とは最近よく会うね」

やっぱり彼は私のことを覚えていた。それがどうしようもなく嬉しい。まさか待っていたなんて一歩間違えればストーカーじみたことを告白するわけにはいかず、私は「はぁ、そうですね」と曖昧な返事をしておいた。

それがまずかったのだろうか、彼はそれっきり組んだ手の上に顎を乗せて何かを考え込むかのように黙りこんでしまった。彼の愛犬が私の前で遊んでほしそうに舌を出すのでその頭を撫でてやる。ふさふさで人懐っこくてかわいい。そういえばこの子の名前を聞いていなかったことを思い出して口を開くよりも先に彼の声が聞こえた。

「好きなんだろうな」
「えっ?」
「きっと君のことをよく見かけるから好きになってしまったのかも知れないね」
「ああ、わんちゃんの話ですか」

一瞬何の話かと思った。主語がないから一瞬だけ、ほんの一瞬だけ勘違いしてしまいそうになった。まさかそんなはずがないのに。よく公園で見かけるだけの人を彼は好きになったりしないだろう。

「いや、私の話だと言ったら君は困ってしまうかな?」

彼の手がそっと私の手に重ねられた。きっとこれは夢に違いない。そんな都合のいいことがありはしない。そう思いたかったのに、右手に伝わる熱と、飛び出しそうなほど胸を叩く心臓がこれは夢ではないことを知っていた。

2011.07.03