『次からぼくのことは名前で呼んでみてくれないかい?』

ぼくもきみのことは名前で呼ぶから。そう一方的な約束を取り付けられたのは五日前のことだ。

花京院くん、かきょういんくん。いつもの調子で彼を呼ぼうとして、直前で約束のことを思い出す。私は今まで通り花京院くんと呼んでいたいのに、彼は名前で呼べと言うのだ。

のりあき。典明くん。彼の名前を舌の上で転がしてみる。けれどもそれを彼に聞こえるよう口に出してみるのはひどく困難なように思えた。恋人同士なのだから名前で呼び合っても誰も咎めないというのは分かっていても。

結局典明と彼の名前を呼ぶことが出来なくて『ねえ』だとか『あのさ』とか言う言葉に逃げる。花京院と呼べば約束を違えたことになるが、典明と呼べないのはタイミングがなかっただとか故意じゃなかっただとか何とでも言い訳出来る。彼は私が名前を呼ぶのを避けているのに気付いているのかいないのかは分からないけれど、それでも私の呼びかけに応えてくれるのでこのままでもいいかと思い始めていた。このまま花京院くんと苗字で呼びさえしなければ気付かれないのではないかと思った。

「ねえ、承太郎」
「なんだ」

呼ばれた名前の主は短く応える。空条承太郎のことは皆が名前で呼ぶせいかなんの躊躇もなく承太郎と呼べる。最初は苗字で読んでいたのだけれど、クウジョウくんと呼ぶのが言いにくいこともあっていつの間にか承太郎になった。下の名前を呼び捨てにしている意識はなく、ジョータローというあだ名のような感覚だ。

「ごめん、やっぱり何でもない」

そう言えば寡黙で優しい彼は深く追及してこない。それを知っていて名前を口に出した。承太郎はそれまで読んでいた雑誌に再び視線を戻し、私はテーブルの上に置きっぱなしだったカップを口元に運んだ。承太郎とは一緒にいてもそれぞれが雑誌を読んだり紅茶を飲んだり好き勝手出来るので気が楽だった。


「なに?」

今度は承太郎が私の名前を呼ぶ。私が意味もなく呼んだことの仕返し? なんてことを考えながら何気なく返事をする。

「約束はさっさと果たした方が気が楽になるぜ」

きっと彼は親友である花京院くんから話を聞いていたのだろう。いや、花京院くんは話したに違いない。承太郎は先ほど私が名前を呼んだ意味にも気が付いている。そう考えると一気に顔に熱が集まる。恋人同士のくせに名前で呼ぶなんて簡単なことすら出来ないのかと、そう思われたに違いない。

「皆が花京院と苗字ではなく、名前と呼んでくれれば良かったのに……」

そうすれば私だって紛れて彼を名前で呼ぶことが出来たのに。恨み言のように言えば、承太郎が立ち上がってぽんぽんと私の頭を二回撫でた。言葉はなく、頭を撫でただけで彼は部屋を出て行こうとする。その姿を目で追っていると、承太郎がドアノブに手を掛ける前にドアが開いた。

「あれ、承太郎出掛けるのか?」

花京院典明その人だった。正直来るなら承太郎が席を立つより前か、私がこの部屋を出たずっとあとに来てほしかった。今から立ち上がるのではタイミングが不自然だ。まるで私が花京院くんから逃げているのを証明してしまうみたいではないか。

私がどうしたら良いか悩んでいる間に承太郎は花京院くんの問いに無言のまま頷いて答えると彼のために道を空けてしまった。

どうするか決まらないまま私はとりあえず手に持ったままの紅茶をすすることにした。変に意識するからダメなのだ。今までだって『ねえ』とか『あのさ』で乗り切ってこれたわけだし、出来ないはずがないのだ。平静平静と心の中で唱えながら冷えきった紅茶を喉に流す。彼はソファに座っている私の隣に当然のように腰掛ける。向かいの、先ほどまで承太郎が座っていた一人掛けに座ってくれればいいのにと思った。

「どうしたんだい?」

私の様子がおかしいことはすぐに見破られてしまったらしい。あなたのせいで私はジョータローに笑われたんですよと言ってやりたかった。何も言えない私は飲み干した紅茶のカップをテーブルの上に置く。その仕草さえも花京院くんが目で追っているのが分かる。堪えきれなくなって花京院くんの方へ視線を向けると、彼は私の顔を覗き込むように首を傾げていた。そして視線が合うとそのままくすくすと笑いをこぼす。

「いつになったら君はぼくの名前を呼んでくれるのかな?」

言い終えたらピタリと笑いを止めてしまう。くすくす笑いは止まったけれども彼の表情はやわらかいままで、私の答えを待っていた。

「えっと……」

もう『ねえ』と『あのさ』は使えない。今すぐ呼んでくれと期待しているのが伝わってくる。するりと彼の手のひらが私の手に重ねられた。



友達に名前を呼ばれることはいくらでもあるのに、その比ではない。心臓が大きくドキリと鳴ったきり、止まってしまうかと思った。じわじわと彼の声が染み込んでいくようだった。どうして彼だけが特別なのか。

「こうして改まって呼ぶと少し照れるな」

そう言ってはにかむ彼はずるいと思う。私の手の甲に指を滑らすことには何ともない顔をしているくせに、こうして名前を呼ぶのには照れると言うのだから。

典明くん、と今にも消え入りそうな声で小さく呼べば、それでも彼にはきちんと届いたようで再びくすりと笑いをこぼした。

2013.09.14