「事務局長! どちらへ行かれるのですか?」
「また君か」

振り返った事務局長はまたいつものようにやれやれと頭を振る。

「次の講義だよ」
「事務局長も講義を受けたりするんですね」
「学園祭の時期は結構さぼっていたからね。まぁ次のは出ても出なくてもどっちでもさして変わらない授業だけど」

事務局長が歩き出すので私もそれについていく。時計を確認すると次の講義が開始するまで移動時間を考えても余裕がある。さらには私は次のコマは空きなので時間だけは有り余っていた。「事務局長、事務局長」と後をついて回ると彼は「はぁ」と深い溜め息を吐く。

「もう事務局長じゃないんだけどねえ」

学園祭も無事終了し、引退した彼は正しくは『元学園祭事務局長』なのだけれど、他の元事務局員も周りも皆変わらず事務局長と呼び続けるので、私も便乗してそう呼んでいる。事務局長という呼び名に慣れてしまった今ではなんとなく苗字に先輩を付けて呼ぶのは恥ずかしい気がして出来ないのだった。

「事務局長、次はいつまた女の子の格好をしてくださるのですか」
「しないよ」
「事務局長は女装が趣味だとお聞きしました」
「また誰が余計なことを」

学園祭のときに見た事務局長の女装姿は遠目ながらにひどく可憐で、しかしながら遠目であったために事務局の仕事で忙殺されていた私はよく見ることが出来なかったのだ。もう一度近くでちゃんと見てみたいと彼の姿を見かける度にお願いしているのに、未だそれは叶わない。

あの女装は学園祭の雰囲気に飲まれた一夜のテンションだったのかと思ったが、詳しく調べれば彼は以前も学園祭の女装喫茶に出てみたり、それ以外でも戯れにしばしば女の子の格好をすることがあるらしい。これは事務局長と仲の良い先輩の教えてくれた確かな情報だ。ならば後輩である私がお願いすればちょちょいと望みを叶えてくれても良さそうなものなのに、変に彼は頑ななのだった。学園祭のときはノリノリだったように見えたのに。

「どうしてまた君はそんなに僕に女装させたがるんだい?」
「だって、事務局長が女の子だったら一緒にお買い物に行ったりカフェに行ったり出来るじゃないですか」

あんな可愛い女の子とお洋服を見たりおいしいものを食べたりしたらきっとものすごく楽しくてしあわせに違いない。事務局長の聞かせてくれるお話はいつもおもしろいし、私も事務局長にお話したいことが沢山あるのだ。彼は人望が厚いので私なんかとゆっくりお話する機会はなかなかない。私が学内で姿をお見かけして声を掛けても、同じように事務局長を見かけたサークルやらなんやらが次々と彼に声を掛けるものだから私はいつの間にか置いてけぼりになってしまう。今回は周りにサークルの姿もないし置いていかれないようにしなければ。

「この姿の僕ではカフェへは行ってくれないの?」

そう言って振り返った事務局長がすっと私の顔をのぞき込む。急に彼が立ち止まるとは思わなくて、急停止した私の体はいつもよりずっと事務局長と近かった。私のブレーキの性能が悪かったらあと少しで事故が起きているところだった。

「男の僕は君とカフェなんかへ出掛けてみたいと思っているのだけれど」

彼の長い睫毛の一本一本までもはっきり見えそうだ。ただでさえ近い距離に私の心臓は体を突き破って飛び出てしまいそうになっているというのに、彼はまた甘えるような表情を作って見せるものだからもうどうしたら良いのか分からなくなってしまった。彼の言った言葉の意味を考えようとしても、私の頭はまるで中身がからっぽになってしまったかのように思考が空回る。

「あの、えっと……」
「返事、次の講義が終わったら聞きに行くから」

トドメと言わんばかりに彼は私の頭をぽんぽんと叩いて笑顔を見せると、そのまま講義室へ入っていってしまった。いつの間にか目的地に辿り着いていたらしい。

あれだけの美貌を持ちながらも硬派で通っている彼がこんなことをするところなんて今まで見たことがない。――では何故? その答えを探そうとしてもぽんこつな私の頭はカラカラと空虚な音をさせるばかりだった。

2017.04.19