部活が終わっていつも待ち合わせている場所に行ってみたのだけれど、その相手である今泉くんはまだ来ていなかった。時計を確認すると、私の部活がいつもより十分ほど早く終わっていたようだ。十分間ここでぼけーっと待っているのもつまらないので彼の部室まで迎えに行くことにした。自転車競技部にはそこそこ顔なじみになっているし、今泉くんを迎えに行くのもたまには彼女っぽくて良いかななんて思ったのだ。

自転車競技部の部室まで行くと制服に着替えた小野田くんがいた。よく見ると片手に携帯電話を持って通話をしていたので会釈だけすると小野田くんもペコリと挨拶を返してくれる。周りには先輩方も数名着替え終わって出てきていたけれども今泉くんはまだ部室の中にいるようだった。鳴子くんもいないし喋る相手がいなくて暇だなぁと思っていると小野田くんが電話に向かって「御堂筋くん」と言っているのが聞こえた。

「えっ、小野田くん御堂筋くんと電話してるの? いいないいな! 代わって!」
「えっ、あっ、はい」

小野田くんは御堂筋くんとのお話の途中だっただろうに、私の勢いが良すぎたのか押されるがまま携帯を渡してくれた。

「もしもーし、御堂筋くん?」

名乗る前に声で私だと分かったのか御堂筋くんは『なんやの、ボクは小野田クンに用があるんやけど』と呆れ声で文句を言う。

「この間のレースで御堂筋くん見かけたよ。背高いから相変わらず目立つね」

御堂筋くんと話すのは楽しい。初めて直接会ったときにはその長身にびっくりしたけれども、話してみるとこれが案外気が合うのだ。私が話しかければ面倒くさそうな顔をしながらも何だかんだで答えてくれるし、悪い人ではないのだと思う。

「この間は話しかけられなかったし、今度ゆっくりお喋りしようね」

『ボクはキミに話すことなんか何一つないわ』とつれない返事が返ってくる。「えー」と非難の声を上げれば『まあ、キミと話してるとピヨ泉クンが面白いことになるからなぁ、少しくらいならええよ』とくすくす笑う声が電話の向こうから聞こえた。そういうところが面白い。

「おい」

御堂筋くんとの会話に笑っていると不意に後ろから声が聞こえて、振り向けば今泉くんがすぐ後ろに立っていた。いつも以上に不機嫌そうな表情で。さっと血の気が引く。

咄嗟にこれはまずいと思った。

怒っている。これが他の人だったら機嫌が悪いのかなお腹痛いのかなとか考えるのだけれどさすがにこれは怒っているのだと分かる。その怒りが誰に向いているかも分かる。私だ。

「こんなところで何やってるんだよ」

硬い声。小野田くんは後ろで慌てているようだった。どうやら小野田くんは今泉くんが近付いていることを教えてくれようとしたのだけれど私が御堂筋くんとの電話に夢中で気が付かなかったらしい。私にとって御堂筋くんは他と違って面白い人なのだけれど、今泉くんにとってはどうやら特別なライバルらしく、すぐ平静を失う。いつもだったらちゃんと今泉くんの様子を窺ってギリギリでやめるのだけれど、背後から来た今泉くんに気付かないなんて、私としたことがらしくないミスだった。きっと今泉くんはしばらく私と御堂筋くんの会話を聞いてしまったのだろう。

「今泉くん、お疲れ」

ぎこちない笑顔を浮かべながら挨拶してみたけれど今泉くんの表情は変わらない。何やら声が聞こえる携帯電話を私は小野田くんにさり気なく、しかし押し付けるように返した。

「ちょっと来いよ」

この状況でふたりきりはまずい。そう思って周りに助けを求めようとしたのだけれど「さーて今日はラーメンでも食べて帰るか!」と近くにいた田所さんは少々わざとらしい大声で言ってこの場を去ろうとしていた。なお悪いことに田所さんは小野田くんも連れて行ってしまった。その後ろには手嶋先輩と青八木先輩がしっかり付き従っているし、「なんやオッサン奢ってくれるんか!」と鳴子くんもどこからともなくやって来て田所さんたちに混ざってしまった。金城さんと巻島先輩も「明日の部活は――」なんて話しながら遠くへ行こうとする。

「ほら、田所さんがラーメン奢ってくれるみたいだよ」

今泉くんも行こう? これはもう私もそこに混じるしかないと思い、明るく言って皆のところに戻ろうとしたのだけれど、今泉くんに手首を掴まれてしまいかなわなかった。

「来い」

今泉くんはそう短く言うと私の手をぐいぐいと強引に引っ張って連れて行こうとする。私の意思なんてお構いなし。掴まれた手首が痛くてさすがにこれはまずいぞと脳内で警鐘が鳴る。いつもはこんな強引なことはしないどころか少し震える手で私に触れているというのに、どうやら私は完全に彼の地雷を踏んでしまったらしい。

どこまで連れて行かれるのだろうと不安に思っていたのだけれど目指しているのは部室裏だと気が付いてさらにまずいと思った。ひと気のないところはまずい。

そう思って逃げ出そうとしたのだけれど私の手首を握る力は強かった。あっという間に私を壁際に追い詰めると、今泉くんは私の背後の壁にドンと肘を付けた。今泉くんは身長があるからこうして追い詰められると迫力がある。当然ふたりの間は腕の半分以下の距離しかなくて、そんなこと考える状況ではないはずなのに、今までにない近さに私の心臓は勝手にドキドキし始める。今泉くんの声が真上から聞こえる。

「御堂筋と何話してたんだよ」

せめて腕を伸ばして壁に手をついてくれれば隙間から逃げれたのに、あまりにも距離が近すぎて身じろぎすらとれない。今泉くんと付き合っていると言っても未だに手を繋ぐレベルでこんなに距離が近いことなんてなかったからどうしていいのか分からなくなる。

「随分楽しそうにお喋りしてたな」
「そりゃあ御堂筋くんは友達だから」
「それにしてはこの間のレースで御堂筋のことばかり見てたみたいだけど」

私は今泉くんを応援しに行って、何度も今泉くんに声を掛けたというのにそんなことは忘れたかのように言う。あのときはあんなにご機嫌だったくせに。この理不尽さから考えるに、どうやら彼は私が御堂筋くんと電話していたことに嫉妬しているらしい。いつもだったら嬉しく思ってもいいのだけれど、さすがにこの状況でにやつく度胸はない。こんな今泉くんは知らない。俯いて彼の顔を見ないようにするので精一杯だった。

「御堂筋くんは今泉くんのライバルだから……敵情視察? みたいな」
「へえ」

明らかに納得していない声だった。自分でも苦しい理由付けだとは思っている。でも友達だからという理由で許してくれない相手にこれ以上何を言えばいいのだろう。

「ごめん……」

とりあえず謝ってみる。お喋りすることが悪いことだなんてこれっぽっちも思っていないのだけれど、今泉くんが嫌がることを知っていてやっていたのでそれに対する謝罪だ。しかし今泉くんからの返事はなく、当然のように彼の怒りも収まった気配もない。もうこれ以上どうすれば良いのか私には分からなかった。

今泉くんは背が高いとは思っていたけれど、こんなに私と身長差があるとは思っていなかった。鍛えていることは知っていたけれど手を振りほどこうとしてもビクともしないなんて思っていなかった。こうして力で押さえつけられてしまっては私がどんなに抵抗してみても今泉くんにかなわないなんてこと考えてもみなかった。彼は男の子なのだと否応なしに意識させられる。

「わ、私が好きなのは今泉くんだから!」

やけくそで目の前の今泉くんに抱きつけば、不意打ちに驚いたのか彼の体がびくりと震えた。これで彼の機嫌が直らなかったらもうどうしようもない。

心臓は痛いほど鳴っている。恥ずかしくて死んでしまいそうだ。誰も見ていないし、私は今泉くんの彼女なのだから何も問題はないはずだと自分自身に言い聞かせる。いつもはふざけたように軽く言える『好き』がこんなにも喉の奥に詰まって出てこなかったのは初めてだった。

彼の腕が壁から離れて私の背中へ遠慮がちに回される。もう一度私が抱きしめる力を強めるとその腕が動揺で一瞬緩んだ。その隙に、出来た隙間から抜け出して一目散に逃げる。振り返って今泉くんの様子を確かめる余裕もない。顔はまだ熱を持っているのが分かるし、頭もぐるぐると上手く働かなくてまともに物が考えられない。ただただ、走って逃げる。

明日今泉くんにどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

2013.06.27