「待ちたまえ!」
名前を呼ばれて振り向くと、飯田くんが少し離れたところで所在を示すように手を上げていた。少しくらい遠くても私の耳は飯田くんの声をよく拾う。何だろうと小首を傾げると、飯田くんがこちらに駆けてくるのが見えた。
「これは君のものだろう」
ずいと目の前に飯田くんが立つ。個性を使っているわけでもないのに彼が目の前にやってくるのはやけに早く感じるし、背が高いからかほんの少しだけ威圧感がある。飯田くんはいつもキビキビ迅速に行動するからそう感じるのかもしれないけれど、いつの間にか目の前に迫っていて、毎回心臓に悪いのだ。
「そこに落ちていた」
そう言って彼が差し出したハンカチは先ほど使ってポケットにしまったはずのものだった。
「確かに私のだ……。ありがとう」
距離からして、きっと飯田くんは私が落とした瞬間を目撃したわけではなく、床に落ちていたそれをたまたま見つけただけなのだろう。それなのに一瞬で落とし主を見つけてしまうなんてさすが飯田くんだ。
「よく分かったね」
「何度か君がそれを使っているところを見たことがあったんだ。それにその綺麗な刺繍。君らしかったからよく覚えている」
『綺麗な』という形容詞はあくまで刺繍という単語にだけ掛かっている言葉で、私自身が褒められたわけではないと分かっているのに。私の脳みそは自分に都合の良い言葉を拾って繋ぎ合わせては、勝手に心臓をドキドキさせているのだから本当にタチが悪い。
「お気に入りだったから拾ってもらえて助かったよ。ありがとう」
「いや、当然のことをしたまでだ」
何だか飯田くんの顔を見れなくなってしまって、足元の上履きを見ながら受け取ったハンカチをポケットの中にぎゅうぎゅうと押し込める。
「待て。そんなに乱雑に押し込めたらハンカチが皺になる」
そう言って飯田くんが私の手首を掴んで止める。彼の手が触れたことにぎゃっと悲鳴を上げてしまいそうになるのをすんでのところで飲み込んだ。けれども変わりにハンカチは手から溢れてぽとりと床に落ちてしまう。
「おい」
また床の上に逆戻りしてしまったハンカチに飯田くんが呆れた声を出す。今日は何度ハンカチを落とすつもりだろう。
もうこれ以上怪しまれる前にもう一度お礼を言って立ち去ろう。そう思って慌てて床にしゃがみ込んでハンカチを拾おうとしたところで、大きな手が私のそれに重なった。
――ボンと、私の顔が赤く爆発する音が聞こえてしまったのではないかと思った。
「私! 次の授業に急がなきゃ!」
そう言って勢いよく立ち上がる。次の授業が実習でも移動教室でもないことは同じクラスの飯田くんには当然分かってしまっただろう。彼の驚いた声がする。言い訳としてはあまりにもお粗末だった。
「じゃ!」
短くそれだけを言って、くるりと彼に背を向けて走り出す。数分後には飯田くんも授業を受けるために同じ教室へ戻ってきてしまうことは分かっていたけれど、私の頭の中はとにかく今この場を逃げることだけしか考えられなかった。
クラスメイトとまともにお喋りも出来なくなってしまったなんて、きっと私はどこかおかしくなってしまったに違いないのだ。
2018.09.02