「君のその推理には穴がある」

そう言って彼が披露した推理は誰の目から見ても完璧で。クラス中が彼に拍手を送る中、私は自分が間違っていたことを認めざるを得なかった。

授業でマッケンジー先生に指名された私は自分の推理を発表した。完全に自信があるわけではなかったけれども、自分で検証した限りでは筋が通っている推理だと思っていた。

そのまま丁度授業終了の鐘が鳴り、私の間違いはうやむやになった。授業で生徒が間違うことなんてよくあることだったし、私たちはまだまだ勉強の途中なのだから間違っても誰も責めはしない。けれども彼は違った。

「君は本当に考えが足りないな。少し考えれば分かるだろう。君はそれでも探偵か?」

先ほど完璧な推理を披露したエルロック・ホームズは私の前にやってきてそう言った。彼はそうやっていつも私に対しては風当たりが強い。

「なぜ君がこのクラスに在籍しているのか不思議でならない」
「ホームズ、ちょっと言いすぎだぞ」

見兼ねたワトソンが庇ってくれたけれども私はそれを片手で制した。

「いいのよ、ワトソン。推理に穴があったのは本当のことだし。私も早くホームズのような推理力を身につけなきゃね」

私がワトソンやマープルに助け舟を求めれば余計に彼の機嫌は悪くなるのだからきっと私の何もかもが気に入らないのではないかと思う。誰にでもそういう相手はいるだろう。仕方がない。だだ、彼にとってそれが私だということが少しかなしいだけで。

私がただひとり、やさしくしてほしいと思う相手だから。

彼が本当はやさしい人だと知っている。そのやさしさが私に向けられないのはつらいけれども。

「私、ちょっとさっきの授業のことで質問があるからマッケンジー先生のところへ行ってくる」

そろそろ無理矢理笑顔を作るのも限界だった。それだけ早口でまくし立ててその場を離れる。「!」とワトソンが制止の声を上げたような気がしたけれども私は無視して走り出した。

どうして私を嫌う人を好きになってしまったのだろう。もっとも、彼は最初から私に対する態度が厳しかったわけではない。最初は普通だった。普通に親しくなって、私が彼を好きだなと思うようになったそのあとから徐々に彼の態度が変わってきた。

私は無意識のうちに彼に何かひどいことでもしてしまったのだろうか。しかしマープルなどは「彼のあれはもう病気だから放っておきなさい。あなたが気に病むことなんて何ひとつないわ」と言う。ホームズに目の敵のような態度を取られながらも私が彼らと一緒にいるのはワトソンがフォローしてくれるからだった。ワトソンが私に話しかけてくれなかったらもうとっくに彼らとの繋がりはただのクラスメイト以下になっていたのではないかと思う。私だって自ら傷つきたいと思っているわけではないのだ。私がもう少し有能な探偵だったなら何か変わっただろうか。

マッケンジー先生はこのタイミングならまだ職員室にいるはずだ。あとで確かめられても大丈夫なように何か授業に関する質問をそこに着くまでに考えておかなくてはならない。何か丁度良い質問はないだろうかと走る速度を落として歩いていると不意に肩を掴まれた。

「待て」

肩を掴んだ手に力が加わって私は強制的に振り向かされた。そこにいたのは私が教室から逃げ出した原因であるエルロック・ホームズその人で。私はすっかり不意を突かれてしまった。まさか彼が追いかけてくるとは思わなかったのだ。今までそんなこと一度もなかったことだった。しかもそんな必死な表情をしているなんて。

それがいけなかったのだと思う。肩を掴む彼の力はそれほど強くなかったのに、驚いた私はすっかりバランスを崩してしまった。あっと思ったときには重心が傾いていた。

「おい!」

ホームズの慌てた声がしたけれども、これからバランスを立て直すことはとても出来なくて思わず目を閉じる。

しかし覚悟した衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。恐る恐る目を開けると黒髪がすぐ目の前で揺れていた。

「ホームズ……?」

至近距離に同じように目を丸くさせたホームズがいた。私は何故かホームズの上に倒れ込んでいて、さらには彼の手は私の背中に回されていた。混乱して上手く働かない頭で、おそらく私が倒れるのを彼が庇ってくれたのだと理解した。しかし結果こんなに距離が近くなるとは彼も予想していなかったのだろう。けれどもホームズの驚いた表情は一瞬だけで、すぐに眉根を寄せてしまう。

「ああ、僕だ。現状を把握出来たのなら早く離れたまえ」
「ご、ごめんなさい……」

硬い声でホームズが言う。私はその声にハッとして慌てて彼の上から退いた。心臓がドキドキと強く鳴っている。ホームズは何事もなかったかのように立ち上がって埃を払っている。私も立ち上がろうと思ったのだけれど転びそうになったことと、ホームズとの距離があまりにも近かったことの両方にびっくりして、足に力が入らなくなってしまった。ぺたりと地面に座り込んだまま一向に立ち上がろうとしない私を見てホームズは怪訝そうな顔をする。

「どこか痛めたのか?」

そう言って一歩再び彼が近付く。あまりにもあっさり縮まる距離に動揺した。ホームズは屈み込むと乱れた私の髪を一房掬って耳に掛けた。ホームズの表情はいつも私に対するときと変わらず不機嫌さを含んだ呆れ顔で、そのやさしい所作は全くの無意識のようだった。

「大丈夫……。ただ、ホームズが追ってきてくれたことにびっくりしてしまって」
「……追ってきたのがワトソンくんでなくて悪かったな」
「どうしてワトソン?」
「そんなの自分で考えたまえ」
「ワトソンは何も関係ないじゃない」

ホームズが追ってきてくれたことがうれしい。ワトソンやマープルに何か言われたからかもしれないけれど、それでも嬉しさが勝った。

「ほら、怪我がないのなら早く立ちたまえ。いつまでそうやって地面に座り込んでいるつもりだ?」

そう言ってホームズは手を差し伸べてくれた。今までそんなことは一切なかったので私はまた戸惑ってしまう。いつもはワトソンかマープルが私にそうする役目だったのに。

「ホームズが私に親切だなんて珍しい……。一体どういう心境の変化なの?」

今日のホームズは変だ。逃げ出した私を追いかけてくるし、距離が近いし、触れる手がやさしい。

「僕の心境は何も変化などしていない。いつもと、何も変わらない」

どちらが彼の本心なのか分からなくなる。私のことをどう思っているのと聞きたいけれどももしもはっきり拒絶されてしまったらと思うと怖くて何も聞けなくなる。

「ホームズの考えは全く読めないわ」
「君は分からなくていい」

「まだ」と彼は最後に小さく付け足す。まだと言うことは“いつか”は教えてもらえるということだろうか。尋ね直すのがこわくて勝手に都合のいい方に解釈することにする。

「ほら、さっさと教室に戻るぞ」

重ねた手に力が込められ、あっさり引き上げられてしまう。そのまま彼は私の手を引いて教室に向かう。私は足をもつれさせないようにするので精一杯だった。ホームズと名前を呼ぶ余裕すらなくて、ただ私は彼の手の熱を意識しながらついていくしかなかった。

教室でマープルに「あらあら。私はホームズに謝ってきなさいと言っただけだったのにすっかり仲良しさんね?」と言われホームズが耳を真っ赤にさせながら慌てて離すまで手は繋がれたままだった。

2013.08.31