窓の外は相変わらず雨がしとしとと降り続いている。その雨のせいか皆足早に通りを過ぎてしまい、このベーカー街にある下宿の前に止まる人影も辻馬車もない。今日は霧が濃くないから通りがよく見えるがひどい日は人の顔なんて判別出来ない。それに比べれば今日は見えるだけマシな方だと自分に言い聞かせるけれども待ち望んだ人の姿は一向に見えない。私は今日何度目になるか分からない溜め息を吐いて、半ば無理矢理窓から視線を外した。

やらなければならない仕事はテーブルの上に山積みになっている。もう午後も回っているのだから早めに片付けなければならない。窓際から離れ、元は来客用のソファに腰を下ろして仕事に向き合おうとしたとき、階段を上がるトントンという足音に私はハッして顔を上げた。

「やっと帰ってきたのね、おかえりなさ……」

声を掛けながら振り返るとそこにいたのは予想とは違った人物で。弾んだ声は途中で尻すぼみになってしまった。

「帰ってきたのが俺でごめんな?」

ドアを開けたワトソンはそんな私を見て苦笑をこぼす。彼は雨に濡れたコートを払いながら部屋に入って私の真向かいの椅子に腰掛けた。

「ホームズだと思ったんだろ? ちょっと落胆した顔になった」
「別にそんなことは……。おかえりなさい、ワトソン」

言葉を濁しながらも笑顔でワトソンを迎える。ホームズだと思い込んでいたから入ってきたのがワトソンで驚きはしたけれども、そんなに落胆した表情をしたつもりなんてなかったのに。ワトソンは笑っていたけれども失礼なことをしてしまった。

「最近のは前よりもよく表情に出るようになったな」
「……それは、探偵としてどうなの」

探偵ならばどんなことにも冷静でなくてはならない。ホームズとワトソンの足音は違いがある。勝手な思い込みでその足音を聞き分けられなかった私は冷静な判断力を失っている。注意力に欠けている。ワトソンは私の分かりやすくなった表情の変化を良いことだと褒めてくれたけれども、きっとホームズならそう言うだろう。

「ほら、頼まれてたやつも調べてきたよ」
「ありがとう。助かるわ」
「ついでだから気にするなって。第一、元々は俺たちの仕事なわけだし」

紙の束を受け取ると、「いつも手伝ってくれてありがとな」とワトソンは言うけれども半分は私が好きでやっているのだ。むしろ半ば押しかけるような形でベーカー街にやってきては手伝わせてもらっているのだから私がふたりに感謝するべきだと思っている。

「紅茶飲む? 淹れるわ」
「ごめん、もらいたいのは山々なんだけどまたすぐに出なきゃいけないんだ」
「あら、忙しないわね」
「ホームズも頑張ってるからな。俺が休むわけにはいかないよ」

ハリントン学園を卒業してからは在学中よりもずっと多くの事件がホームズとワトソンのもとに舞い込むようになった。学生時代もその歳にしては十分すぎるほどの依頼があったが、卒業以後は彼ら自身の解決した事件によってさらに有名になった。一時期は次から次へと依頼人がやってきて途絶えることがなかったほどだ。今は依頼人の数は落ち着いたものの、その代わりふたりは難事件に挑む機会が多くなった。今ふたりが取り掛かっている事件もスコットランドヤードから持ち込まれた事件のひとつで、一週間前にレストレード警部がここを訪れて以降、特にホームズはこの事務所にほとんど帰って来ないほど事件にのめり込んでいるようだった。

「ホームズは今日もまだ一度も帰ってきてないのか?」
「ええ」

いっそ避けられているのではないかと思うほどだ。大抵はふたりが事件の調査に行くのに同行させてもらっているけれど、危険が伴う事件の場合は絶対にホームズは私を連れてはいかない。そういうときはこうして膨大な資料の整理をして過ごしている。自分の身を守る術を持たない私が行くと足手まといになることは分かっているから仕方のないこととは言え、こうしてふたりが頑張っていても私の出来ることは微々たることしかなくて歯痒く思う。

「ホームズも多分もうすぐ帰ってくるとは思うけど、俺も暗くなる前には帰ってくるから」
「分かったわ。いってらっしゃい。気を付けてね」

すぐにワトソンはコートを掴むと再び出て行ってしまった。きっと私に調べてきたことを報告するためだけにベーカー街まで帰ってきてくれたのだろう。階下からハドソンの「もう行っちゃうの?」という咎めるような声が聞こえた。ハドソンもふたりが帰ってくるのを心待ちにしていたから寂しいのだろう。ワトソンが帰ってきたのを知って急いでお茶の支度をしていたのかもしれない。そのうちハドソンが紅茶とクッキーを持ってきてくれるかもしれない。そんなことを思い、彼女が来る前に仕事に一区切りつけてしまおうと資料に向き直る。

ワトソンが手渡してくれた紙をパラパラとめくって確認していると再び足音が聞こえてきた。まっすぐこの部屋に向かって来ている。一瞬、ワトソンが何か忘れ物でもして帰ってきたのかと思ったがすぐに足音が違うことに気が付いた。この足音は――

「……君だけか」
「おかえりなさい、ホームズ。ワトソンならさっき帰ってきたのだけれどすぐに出て行ってしまったわ。入れ違いね」

今度は冷静に迎えることが出来た。語尾も跳ねていないし声も上擦っていない。いつも通りの私だ。本当に最初に帰ってきたのがホームズでなくて良かった。

「そうか」
「頼まれていた資料の整理は終わったわよ。探していたのはこれでしょう? 裏付けもワトソンが取りに行ってくれたから間違いないわ」

手元の資料を掻き集めているとホームズは向かいの椅子でなくわざわざ私の隣に腰を下ろした。他にも椅子が空いているのにわざわざソファの隣に座った彼を疑問に思いながらも、ホームズのデスクは色々なもので溢れかえっていてその山が今にも崩れそうだから避けたのだろうと思って特に何も言わなかった。

ちらりと彼を盗み見ると不機嫌そうな表情をしてまっすぐ何もない空間を睨んでいた。きっと事件のことで思い悩んでいるのだろう。ホームズがこれほど頭を悩ませるなんてどれほどの難事件なのだろうか。今日出掛けた先で思うような成果が上げられなかったのだろうか。

そんなことを考えていると不意に、こてんと肩にわずかな重みが掛かった。何事かと思いそちらを見ると彼の頭が私の肩に乗せられていた。

「ホ、ホームズ?」
「少し黙りたまえ」

そう言うホームズの声色はいつもと変わらない。変わらないのに声は至近距離で聞こえるのだからたまったものではない。

「動くな」

短く言われて思わず私はその場で動きを止める。言われなくとも体はガチガチに強張っている。

「僕は少し仮眠を取る。一時間経ったら起こしてくれ」

そう言って再び私の肩に頭を預ける。体重はソファの背もたれに掛けているらしく重くはない。さらりと彼の黒髪が揺れる。

女性にもたれかかるなんて全く紳士らしくない、普段のホームズからは考えられない行動だ。仮眠をとるにしても隣の部屋にベッドがあるのだからそちらで休めば良いのに。彼がこうして無防備な姿を人に見せることは滅多にない。それほど疲れていたのか、それとも寝顔を見せてもいいと思える程度には私に心を許しているのか。……後者だったらいいなと思う。

いつもの強い意志を持った緑色の瞳が閉じられているせいか、こうして寝ている彼の顔はあどけない。そっと、振動を与えないように彼の髪を撫でてみる。彼の髪が指の間をすり抜けた。

「一体君は何をしているんだ?」
「……起こしてしまった?」

ホームズがぱちりと目を開けてこちらを見る。彼はにらんでいるつもりなのだろうけれども私にとっては至近距離で目を合わされてそれどころではなかった。黒髪の向こうから覗く瞳にひとり心臓をドキドキさせていた。

「起こすも何も、こんな風に頭を撫でられて寝ていられるわけがないだろう。君は枕の代わりすら満足に果たせないのか?」

そう言いながらホームズは起き上がる。肩に乗っていた重みとぬくもりが消える。あっと後悔してももう遅い。

「君には頼んでいる仕事もあることだしやはり僕は隣で寝る。時間がきたら起こしてくれ」

そう言うなり彼はひらりと踵を返して自分の寝室に引き上げようとしてしまう。

「待って」

とっさにホームズの服の端を掴んで引き止めてしまっていた。普段、ひとりで何でも出来てしまうホームズがこういう姿を私に見せることは滅多にない。もっと私は彼の支えになりたいのに、いつも上手くいかない。今だって引き止めてどうするつもりなのか。もう一度ここで寝てほしいと頼む? ソファで私に寄りかかって眠るよりもベッドで横になる方が疲れも取れるはずなのに?

「……いえ、何でもないわ。一時間後に起こせばいいのね?」

一時間後に起こしてほしいということはまたこのあとも出かけるということだろう。ここのところホームズは事件にかかりきりでなかなかこの事務所に帰ってこない。こうして顔を見たのも数日ぶりで。ワトソンによれば夜中に帰ってきて数時間は眠っているらしいが、遅くまで私がこの事務所に残っていようとするとワトソンが『女の子がダメだって!』と言って私を家まで送り帰してしまうのだ。『俺がホームズに怒られるから!』と。久しぶりに会えてもっと一緒にいたいという気持ちと、彼に迷惑を掛けられないという考えがせめぎ合う。そんな風に思っていても、結局は理性が勝って、物分かりのいいふりをしてしまう。それもいつものことだった。

「おやすみなさい」

パッと手を離してそのままその右手をひらひらと振る。口元はぎこちなかったかもしれないがきちんと笑顔を向けられたはずだ。それなのにホームズはそんな私を数秒凝視したあと「はぁ……」と溜め息を吐いた。

「仕方ないな」

呆れたような声。それなのに小さくそう言って視線を上げたホームズの目はとてもやさしい色をしていた。普段鋭く事件を追う彼とは全く違う瞳。

「今日はこのあと依頼人と会う約束がある。だがそのあとは時間が空くから今日は僕が君を送ろう」
「そんな、悪いわ。ホームズは疲れているのでしょう? 私ならひとりで帰れるから」
「僕は疲れてなどいない。君はそんな心配はしなくていい」
「でも」

嬉しいくせにすぐ物分かりのいいふりをする私が出てくる。ホームズに迷惑を掛けられない。彼に頼られたいと思っているのにこれでは彼に負担しか掛けていない。なりたい自分から最も遠い姿だ。私が断るとホームズは再び呆れた顔になる。またやってしまった。素直になれないのだったら最初から引き止めなければ良かったのに。私の行動には一貫性がない。自分の不甲斐なさから俯くと、すっとホームズの指が私の頬を撫でた。冷たい指はまるでいつくしむかのようなやさしい手つきで頬を往復する。

「君は僕にみなまで言わせる気か?」

その一言、そして頬に触れる熱でやっと彼の意図を察した私はその途端に何も言えなくなってしまった。

「君はもっと僕に我が儘を言え。僕を頼れ」

触れられた部分がじわじわと熱を持つ。真っ赤になりながら口をぱくぱくさせるだけで二の句がつげなくなってしまった私を見て、ホームズは満足げな表情を作った。

「分かったら大人しく待っていたまえ」

ホームズは最後に私の頭をくしゃくしゃと撫でると寝室に入ってしまった。バタンという音でドアが閉まったのを確認した私はわっと勢いよくテーブルに突っ伏した。ぐしゃりと紙が折り曲がる音がしたけれども気にする余裕はなかった。

「ずるいわ、ホームズばっかり」

私ばかりが彼に甘やかされている。いつもはホームズと少しでも一緒にいたくて、彼の帰りを待っていたくて夕暮れを苦く思っていたはずなのに。今日ばかりは早く日が落ちてくれないかと日暮れが待ち遠しかった。

2013.03.26
5. もっと、甘えて欲しい (ホームズJr.) title:age
企画「ミステリア布教委員会」へ提出 か子