私は何度も住所を確認し、無意味に何度もビルヂングの名前を見てしまった。そして今の私は扉の前で、それに書かれた薔薇十字探偵社という文字をぼーっと眺めていた。もっとも、ただ呆けていたわけではなく、これでも私は必死で考えていたのだ。この扉を開けて中に入って行くべきか否か、ということを。つまり、噂を聞いて勇んで来たものの、直前で怖気づいたということである。所詮世間の狭い小娘だ。このような場所に来たのは当然初めてで、勝手も分からないのだ。不安に思っても仕方ない、と自分に言い聞かせて何とか気持ちを落ち着かせようとする。しばらく逡巡したが、此処まで来て帰るのも口惜しい。思い切って扉に手を伸ばした、私が触れるより前に扉が開いた。驚いて飛び退くと扉の隙間からひとりの青年が顔を覗かせた。

「入ってこないんですか」

とっくに気付かれていたのだ。あの、と私が口を開く前に「もしかして依頼人ですか」と聞かれたので、私は開きかけていた口を閉じて、必死で首を縦に振った。そうして無事に中へ招かれた私は座り心地の良さそうな椅子へ案内された。中にはもうひとり青年がいた。

「ほら、やっぱりただの依頼人だったでしょう。可愛い女の子ですよ」
「女だからって安心しちゃあいけない。うちの先生は大層モテるってことを考慮しないことにゃ」

やはり長いこと扉の前で立っていたことで不審に思われていたのだ。自分の行動を反省する。

「えっと、探偵さん、」
「あ、僕ァ探偵じゃないですよ。その助手です」

間違ってもあのオジさんの前で僕を探偵さんなんて呼ばないでくださいよ、とやけに深刻そうな顔で言う。

「助手で良ければ話を聞きましょう。とりあえず依頼内容を」
「はい。その、いなくなってしまった猫を捜してほしいのです」

そう言うと彼は「猫、捜しですか」と少し困ったような表情で私の言ったことを復唱した。不安になって、駄目でしょうか、と問うと「そんなことはないですよ」とやけに明るい声が返ってきた。そしてその猫の特徴を問われたので聞かれるままに話す。

「うちの猫は失踪癖があるのです」
「そりゃあ大変ですねぇ」

と言いながら、もうひとりの青年がお茶を出してくれた。確かに失踪癖のある猫というのもおかしなものだ。普通の猫ならご飯時になどに帰ってくるだろう。それについて私はあの猫がどこか他所でもご飯をもらっているのではないかと踏んでいる。もしくは、私を困らせるためだけに帰ってこないのだ。

「それで、貴女はどちらのご令嬢ですか」
「ご、ご令嬢?私がですか」
「ありゃ、違うんですか?僕ァ動物探しの依頼だからてっきりどこかの金持ちから噂を聞いてやってきたんだと思ったんですがね」
「こちらが動物探しに長けている探偵事務所だという噂は聞きましたけれど、私はそんな大層な者ではなく、ただの一般庶民です」
「ってことは、あの噂はもうかなり広まっちゃってるってことですか」

はぁはぁなるほど、と助手の青年は何故か楽しそうに言った。勝手に納得されても困る。それよりも私を令嬢と間違えるとはどういうことか。それほどどこぞのご令嬢やご子息が毎日詰め掛けているということか。もしやここは財閥界御用達の高級探偵事務所なのだろうか。私はやはり場違いな所へ来てしまったのだ。

「あの、私、やっぱり失礼します」
「ああ、大丈夫ですよ。うちは法外な探偵料を請求したりしませんから」

と彼が私の心を見透かしたかのように言った。実際、私の単純な思考回路など簡単に読まれていたのかもしれないが。

そのとき、爆発音がした。

それは私の勘違いで、ただ単に奥の扉が勢いよく開いた音だったのだが、そのときの私にはそれを認識するだけの余裕がなかった。「先生やっと起きられたんですか」「榎木津さん、依頼人が来てますよ」とふたりの青年は口々に彼に言った。おそらく、探偵なのだろう彼が、色素の薄い瞳で私を捉えた。

「なんだ、また君はにゃんこを見失ったのか」

ああ、まさにあの時の、彼であった。もしかしたら、探偵社に赴くことで会えるかもしれないと、期待しなかったわけではない。でもそれは、もしかしたら同業者の人に彼についての情報を聞くことが出来るかもしれない、という程度のものだった。まさか、その場で彼と再会出来るなんて思っていなかった。しかも、彼は私を覚えていた。私が驚きで固まってしまっている間に彼は青年にお茶を出すよう命令し、どかりと私の正面の椅子に座った。再びあの瞳が私を見据える。

「それでそのにゃんこを捜せばいいんだな」
「あの、探偵さん」
「エノキヅ」
「え?」
「えのきづえのきづえのきづえのきづえのきづ」
「え、何ですか。づきえの…?」
「榎木津だッ!」

と目の前の彼、榎木津探偵は力強く言った。私は「榎木津、さん」と小さく言ってみた。小さすぎて、きっとそれはかき消されてしまった。

「人の名前を間違えるなんて失礼極まりないぞ」
「そういう榎木津さんは人の名前全く覚えてないじゃないですか」
「うるさいぞ、マスカマ!」

口を挟んだ助手に対して言い放つと、「ほら行くぞ」そう言って探偵は急に立ち上がり、私の手首を掴んだ。私の手を引いて扉の方へ向かう。

「一体、どこへ、」
「猫を捜しに行くに決まっている」

一緒に猫を捜すと言われて驚いたが、探偵と言えども、やはり写真のない猫をひとりで捜すことなど不可能なのだろう。きっと捜す猫を知る私も当然同行しなければならないのだ。「普段ならこんな仕事は絶対にお断りだ」さくさくと大股で歩きながら探偵は言う。私はそれに小走りで付いて行くのに精一杯だった。

二度目の祝福